もしも麺つゆの名称が「めんつ」だったら
A「いやぁ~昨日は濃いメンツで飲み会だったわ~」
B「え、飲んだの?」
A「飲み会なんだから飲むだろ?」
B「濃いめんつってことは、原液で?」
A「ん?まぁ週一でやってるフットサルサークルの飲み会だしなぁ、現役と言えば現役だな。」
B「スポーツしてる人はすごいなぁ。でも、原液で飲んだら、さすがにのど乾くでしょ?」
A「まぁなー、みんな現役で、結構激しく動いた後だから喉カラッカラだよな」
B「そこまでして飲まなくても・・・」
A「バカ言うな。汗かいた後の生は想像を絶するうまさだぞ!」
B「え、生とかあるの?」
A「一杯目は生だろ普通~」
B「ペットボトルか瓶しか見たことないよ」
A「瓶もあるけどやっぱジョッキだろ。ペットボトルも最近は売ってるのか。」
B「ジョッキで!?飲みすぎでしょ!?」
A「は?5、6杯は飲むぞ普通に」
B「そ、そんなに・・・。薄めたりしないの?」
A「薄める?あーカクテル的なこと?ジンジャーエールで割ったりするよ」
B「ジンジャーエール!?まぁ確かに薬味でショウガを入れるけど・・・」
A「カクテルの薬味って(笑)面白い表現だな」
B「でも、生に合うつまみがないんじゃない?」
A「生には焼肉一択!」
B「焼肉!?タレに使うの?」
A「はぁ?焼肉には焼肉のたれだろ?焼肉を生で流し込むのが最高なんだよ」
B「絶対腎臓やられるよそれ」
A「腎臓というか肝臓かなぁ」
B「やっぱりこだわりのメーカーとかあるわけ?」
A「あ~、俺はアサヒが好きかな」
B「アサヒからも出てたっけ?」
A「おう、ドライな感じが最高だわ」
B「辛口なんだね」
A「文字通りな。一番搾りが好きな奴も多いぞ」
B「一番搾り?ちょっと高級な奴かな」
A「値段は他と変わらないぞ。そうだ、お前も今度一緒に飲もうよ!同じメンツで!」
B「いや、そもそもめんつは飲むものじゃなくて素麺につけるものだし・・・」
A「え?」
B「え?」
LINEのアイコンを犬にしている人たちへ
LINEのアイコンを犬にしている人たちへ。
単刀直入に言うと、メッセージを受信する側は少なくともあなたが想像している3倍以上の感覚で「犬と話している」気分になっています。
人語を巧みに操る超知的な犬と会話する気分になっているのです。
犬は言います。「変動要因はそのファンドに組み込まれている投資対象の中身による」と。
犬は人語だけでなく、金融の知識まで兼ね備えているのです。
このウォールストリート勤務の犬はどう考えてもワタクシに著名なペットフードブランド「Pedigree」で知られるMARSの株を買えと勧めてくるに違いありません。
犬は言います。「ところで、写真を添付するにはどうしたらいいのですか?」と。
とはいえ、犬はLINEの機能を十分には使いこなせていないようなのです。
人間と犬を分ける基準は言葉を使えるかどうかではありません。
二足歩行が人間であり四足歩行が犬です。そしてLINEで写真を送れるのが人間で送れないのが犬です。
イカは言います。「ラインに登録しました。このあとどうすればいいですか?」と。
よく読んでください。イカなのです。犬ではなくイカからLINEが届いたのです。
The future is wild(Dougal Dixon,2003)では脳と身体が異常に発達したイカが人類滅亡後に地球を支配すると書いてありました(違っていたらすみません)。
人類滅亡を待つまでもなく、イカは現代のテクノロジーを駆使して人間との意思疎通を試みはじめています。
しかし、イカはまだLINEが文字によるコミュニケーションツールであることをよく理解していないようなのです。
イカから届いた
「ラインに登録しました。このあとどうすればいいですか?」
というメッセージを読んで、皆さんはこう思われたことでしょう。
「え?連絡をとる以外にやることあるの?」と。
人間とイカを分ける基準は言葉を使えるかどうかではありません。
二足歩行が人間であり八足歩行がイカです。そしてラインのメッセージやり取り機能を理解しているのが人間でイマイチ理解しかねているのがイカです。
人語を操る犬のみならず人語を操るイカからもLINEがくる。これが今のワタクシ現状なのです。
薄々気づいた方もおられと思いますが(薄々ではないかもしれませんが)、これはワタクシの家族のお話です。
黎明期からのスマートフォンユーザーであり、銀行マン(銀行ウーマン)である妹のラインのアイコンは実家で飼っていた「クッキー」という犬なのです。
そして、ベテランガラケー使いであり50代も半ばを迎えようとする両親が、つい最近スマートフォンに乗り換えたのです。
あろうことか母親は満を持してそのLINEアイコンを「クッキー」にしたのです。そしてメッセージは送れるものの、写真を送る方法がよく分かっていないのです。
従って、ワタクシの家族うち女性陣二人のアイコンは「クッキー」、つまり「犬」なのです。
これで家族の過半数が「犬」になりました。母は犬、妹も犬です。
残された人類はワタクシと父のみ。
父は「男は黙ってサッポロビール的」な人物で、大黒柱に相応しいふるまいとして、久しくそのアイコンをデフォルトの「人間」にしておりました。
ところが、ある日突然父親はイカになっていました。
「男は黙ってサッポロビール」に倣い、黙って人間からイカに姿を変えておりました。
イカに姿を変えてから
「ラインに登録しました。このあとどうすればいいですか?」
という哲学的ともとれるメッセージをぶちかますその姿勢はまさに大黒柱以外の何物でもないでしょう。
従って現在ワタクシの家族構成は、
イカ(父)、犬(母)、犬(妹)、ワタクシ
であり、1魚介類と2匹と1人という人類史上稀にみるカオス的な状況に陥っております。
さらに困ったことがあります。当のワタクシのアイコンはもはや生物ですらないのです。
ワタクシのアイコンはこれです。
もはや生物ですらなく、敢えて言うならば「メディア」、言い換えれば「コンテンツ」です。
つまり、ワタクシの家族構成は、
イカ(父)、犬(母)、犬(妹)、コンテンツ(ワタクシ)
という括弧書きがなければ何のことやらさっぱりわからない要素から成り立っているコスモロジーということになります。
今、ワタクシには「家族でグループラインを作る」という夢があります。
そこには人類を理解を超えた世界が広がることでしょう。
イカと犬とコンテンツが会話するウルトラカオティックな世界。
人類の進化はここに極まるのです。アーメン。
利他性と拘り
相手のためを思うのならば、相手のパフォーマンスが上がるように行動することが必要だ。
「あの人のためを思ってやっているのにわかってくれない」という歯がゆさを感じたことがあると思う(なかったらごめんなさい)。
なぜそのようなことが起こるのだろうか。
それは「自分の行動によって相手のパフォーマンスが上がるかどうか」という視点が抜け落ちているからである。
言い換えると、「手段に拘って目的を忘れている」からとも言える。
女性から相談事をもちかけられたときの男性の対応はその一例だと思う。
巷でよく耳にする言葉に「女性は共感を求め、男性は解決を求める」というものがある。
何かしらの問題を抱えて不調に陥っている状態から回復するに際して、女性には共感が有効であり、男性には解決が有効であるということらしい。
それが本当なら(恐らく本当なのだろう)、男性は説教やらアドバイスやらを繰り出すのではなく、適切に(テキトーにじゃないですよ)相槌を打ちながら女性の話を聴くことに専念すればよい。
目的は「女性を不調から回復させること」なのだから「傾聴と共感」はその手段である。
にもかかわらず、いきおい男性はあれやこれやと助言してしまい最終的に女性から「あなたは何も分かってない(怒)」と言われ、途方に暮れることになる。
何故そのような事態に陥るかと言えば、アドバイスという手段が女性の不調からの脱出という目的に合致していないからである。
「アドバイス」という手段が女性に対して有効でないならば、それに拘る理由は何もない。
しかしこの時、男性は自分の経験上有効であった具体的解決策の提示という「やり方」に囚われてしまっている。
利他的に行動したつもりが肝心の他者のためになっていないとき、そこには「自分のやり方」への拘りが潜んでいる。
「自分のやり方」への拘りが本来の目的を見失わせるのである。
とは言いながらも、相手の出方に対してあれやこれやと自分のやり方を変えればよいのか、そのような態度は一貫性に欠けるのではないかという疑問も生まれてくる。
しかし、その疑問は「思考の次数を一つ繰り上げる」ことで解決できる。
つまり「拘り」の対象を一段階上げてしまうのである。それは「手段」に拘るのではなく、「目的」に拘るということである。
先の例でいえば、男性は「アドバイス」という手段に拘るのではなく、「女性の復調を促す」という目的に拘るということである。
そのような心構えをしていれば、手段の選択肢が増え、目的に対して柔軟に対応できるようになる。
一貫性というのは目的に対する姿勢で評価されるべきものであって、手段において評価されるものではない。それは利他的な姿勢においても変わらない。
相手の心身の活性化という一貫した目的のために、手段に拘泥せずに行動すること。
利他的な態度とはそういうものなのではないだろうか。
「あなたのためを思って行動します。ただし、私のやり方で。」という言明が利他的とは言い難いことがその何よりの証拠である。
というようなことを女性から大いにモテる男友達に話したところ、「あのね、そうやって理屈を振り回すんじゃなくて、本当に相手の気持ちになって話を聞いてあげることが大事なんだよ」と懇々と諭されました。
神よ、我を理屈という拘りから解放したまえ。アーメン。
願いよりも感謝を
神様に手を合わせるときには何かを願うよりも日頃の感謝を伝えたほうがよい。
初詣や観光で神社に参拝することになって本殿の前で手を合わせている時、頭の中で何を考えているだろうか。
多分何かしらのお願いをしているはずだ。
「無病息災」とか「試験合格」とか「恋愛成就」とか、あるいは「有馬記念、お願いします!!」とかいうように「願いが成就すること」を祈っていると思う。
しかしそれは結構強欲な振る舞いではないだろうか。
「願いの成就」を祈念する人は「願い」が成就して初めて「神の恩恵」を感じることになる。
でも「神の恩恵」に与るのは本当に「願い」が成就した時だけなのか。「既に神の恩恵に預かっている」という視点が抜け落ちているのではないか。
考えてみてほしい。普段私たちは何事もなく毎日を過ごしている。しかし何故そのような安寧な生活が成り立っているのだろうか。
突き詰めればそれは「運」ということになる。私たちは事態の生起を完璧にコントロールすることはできないからだ。
日本は世界の国々に比して治安が良いことは間違いない。
しかしそれでも突然通りすがりの人に刺されるかもしれないし死亡事故に巻き込まれることもあるし痴漢冤罪で逮捕されることもある。
もちろんそれらの事態に遭遇する可能性を下げることはできる(危険な地域に住まない、常に安全運転をする、ラッシュを避けて電車に乗る等)。
けれども可能性は決して0%にはならない。
家から出ないという選択は偶然に命を奪う危険から限りなく遠ざかることができるけれども地震で家が倒壊して死んでしまうかもしれないし放火魔に家ごと焼き尽くされるかもしれない。
そう考えれば普通に生きていること自体が割と奇跡的なのである。
私たちが気ままに欲望を口にできるのも「何故か知らないけれども死や不幸を免れているから」に過ぎない。
つまり私たちは根本的に人知を超えた力の作用によって生きながらえているのである。
そして人知を超えた力を操るものは神と呼ばれる。
だから私たちは生きているだけで既に「神の恩恵」に預かっていることになる。
なので神社ではまず神様に対して今日まで生きられたことを感謝した方がいいと思う。
恋愛の神様とか学問の神様とかを前にした時も同じだ。
逆説的だが恋愛の神様とか学問の神様が伝えているのは「恋人ができますようにとか頭がよくなりますようにとか願っていてはダメですよ」ということなのである。
「生きているだけでありがたい。恋愛や学問を成就させるには自分の力で頑張らないといけない。」ということに早く気づきなさいよ、と言っているのである。
願いよりも感謝を。信仰心とはそういうものではないか。
ここまで書いて気付いてしまいました。
僕はしょっちゅう神様に「お願い」していることに。
「神様、どうかこの二日酔いという悪夢から私を救ってください。」
ダメみたいですね。
お年玉をわたす側になってしまう
お年玉を「もらう側」でなくなって久しい。
それどころか最近はお年玉を「わたす側」としてのデビューが近づきつつあるのを如実に感じる。
父方または母方の実家に帰ると、甥なのか姪なのかはとこなのか何なのかよくわからないけれども「あなたと同じ血が流れていますよ20倍希釈くらいだけどね」というメッセージを送ってくる恐らく親族であると思われる乳飲み子がいたりするからである。
いづれ僕はこの20倍希釈親族的な子供にお年玉をあげることになるのだろう、と考えると時間流れというものを意識せざるを得ない。
僕らは誰しも小さい頃はお年玉の「もらう側」だった。この腐敗した世界に落とされたGod's Childだったのだ。どうか私とワルツを。
先日父方の従妹にお子さんが誕生した。今年の正月に父方の実家に帰省していたらしく、母親が写メール(いまだに)を送ってきた。
今にもこぼれ落ちそうな頬っぺたが愛くるしい1歳にも満たない男の子だった(以下頬っぺた)。
「お年玉だよ~」と僕は頬っぺたにポチ袋を渡す。
「え?これだけ?」何故か頬っぺたは喋る。
「お前はもっと貰ってきただろう?貰ったものは次の人に渡さないといけないよな?もっとちょうだいもっとちょうだいもっともっと」
真っ赤な目でニヤニヤしながら頬っぺたが僕の腕にしがみつく。振り払おうとしてもあり得ない力で腕を掴んでくる。
「じゃあお金の代わりにこの腕をもらおうかな」
という夢を1月3日に見ました。
年末年始に飲みすぎて文字通り1日中布団の中にいた時のことです。
貰ったものは次の人に渡さないといけない。
受け取るだけ受け取って与えない人には罰が下るという教訓をGodが教えてくれたのだと思っています。
いやー怖かった。
「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という劇薬
他人は変えられないけれど自分は変えられるという言葉がある。
この言葉に自己啓発的な意味は一切ない。
「諦めを伴った人間関係割り切り方法」として手段的に、ストレス回避法的に用いられる場合に効果を発揮する実用的なツールだ。
「他人は変えられないけれど自分は変えられる」と字ずら通りに信じた人はその時点で「他者の変化可能性に対する信頼」を放棄することになる。
「他人は変えられない」という言葉を内面化することによって「私が何を言っても目の前にいるこの人は変化することはない」という命題に同意することになる。
その命題に同意した人の言動では他者との深いコミュニケーションを実現することはできない。
その人は心の中で「こいつには何を言っても変わらない」と思っているのだから。
なので会話のスタイルとしてコミュニケーションを断絶させる方法か過剰にサービス精神を発揮して「ヨイショ」する方法かのどちらかを採用することになる。
自分を「ディスコミュニケーション的」で「コミュニケーション軽視」な主体に変えてしまうのである。
断絶とヨイショ。どちらの方法を取った場合でも話し相手が自分の言葉に感化されて変化することはない。
コミュニケーションを断絶すればそもそも相手に自分の言葉が届くことはない。ヨイショしておけば本音を伝える必要はない。いづれにしてもコミュニケーションの深化は起こらない。
このように「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は、そのスタンスを取ることによって他者とのコミュニケーションを表面上で終始するように構造化してしまう。
だからどうしようもないクレーマーとか自分の話ばかりして意思疎通が取れない人とかと対峙する場合には絶大な効果を発揮する。
今目の前にいる他者との真摯なやり取りを諦めることによって精神的なダメージを最小限に抑えることができるからである。
そのような相手と対峙するときには「他者の変化可能性に対する信頼」はさっさと放棄した方がよい。ディスコミュニケーションに徹した方がよい。そもそも人の話を聴いていない人物に何を言っても無駄なのだから。
つまり「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は「常識的に考えて話が通じない人」とのやり取りにおいてコミュニケーションを切断し、自分をストレスから守る時に用いる極めて防衛的なツールなのである。
だから通常の人間関係に対して「他人は変えられないけれど自分は変えられる」というスタンスでは望まない方がよい。
それは相手と真摯にコミュニケートすることを避けていることになるのだから。
人間関係とかコミュニケーションをテーマにした本には「他人は変えられないけれど自分は変えられる!!(キラキラ)」という表現でそれがさもコミュニケーションの肝であるかのように書かれているけれども、それは絶対に違う。
「他人は変えられないけれど自分は変えられる」の意味するところは、
「(まともにコミュニケーションを取っていたら自分がストレスで壊れてしまうような)他人は変えられないけれど自分は(一時的にあえてコミュニケーション不全になってこの場をしのげるような状態に)変えられる」
というものである。
確かにストレスは避けられるが使いどころをよく考えていないと誰ともコミュニケートできない人になってしまう「劇薬」なのである。
というような話を正月母方の実家に帰る道すがら思いついたのですが飲み会に次ぐ飲み会で頭が全く回っておらずおまけに母方の実家についたら即ビール&日本酒というありさまでしたので、スマートフォンのメモ帳に残っていた「他人は変えられないけれど自分は変えられるというのは傲慢だ」というワードから何とか思考を引っ張り出して書きました。
人と話すときには「僕の話であなたの考えが変わるかもしれないし、あなたの話で僕の考えが変わるかもしれない」という姿勢で臨まないと相手に失礼だし、面白くないじゃないですか。ウェーイ。
Run Awayという免罪符
人間だれしも目の前の現実を放り出して逃げ出したくなることがあると思う。
そんな時はとりあえず「逃げる」という言葉を「Run Away」という言葉に置き換えてみればいい。
今日、右を見ても左を見ても世間に英語が溢れている。そして憑りつかれたように「英語を学びなさい」というアナウンスが繰り返されている。
中学校で英語、高校で英語、大学で英語、会社でも英語。何なら小学校から英語。
でもそのような状況になっているのは「たまたま」である。
想像してみよう。
もし産業革命がフィリピンで産声を上げ、その勢いにまかせてフィリピンが世界の国々を端から端まで植民地として統治し、勃発する世界大戦の戦勝国として君臨していたとしたらどうだろう。
僕たちは今頃、必死でタガログ語を習得しようと躍起になっているはずだ(日本語が根絶やしにされている可能性もあるけれど)。
日本人だけでなくイギリス人もスペイン人もロシア人もインド人もこぞってタガログ語マスターになるべく精進していると思う。
ある言語がワールド・スタンダードになるのは歴史的な結果論であって、その言語の特質によるものではないのだ。
つまり今日「英語」がワールド・スタンダードなのは「偶然」なのである。
そして僕たちが日本語という確固たる「国語」を保持している以上「外国語」はあくまで「借り物」なのである。
「偶然」与えられた「借り物」なら「なんとなく責任とらなくてもいいかも」と思ってしまう。
だから「偶然」かつ「借り物」である「英語」には「なんとなく無責任が許されるフレーバー」が常に付きまとう。
そのフレーバーを最大限に生かしてみよう。
「逃げる」を「Run Away」に置き換えるという話だった。
あなたは小学生だと仮定しよう。
あなたは宿題をやっていない。嫌で嫌で仕方なかったのだ。
担任の先生はあなたを咎める。
「どうして宿題をやってないの!?」ヒステリックに叫ぶ女教師(メガネ)。
正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。
「僕は宿題から逃げたんだ。」
でもそれを英語を交えて堂々と言ってみよう。
「僕は宿題からRun Away!!」
クラスメートはもちろんのこと担任、教頭、校長までなぎ倒せるだろう。
宿題はやってないけど英語は堪能なのね、TOEIC890点なのねという論理的帰結で、あなたを責める人はいなくなる。
やがてあなたは学級委員長になり、生徒会長になり、卒業式で答辞を読み、卒業式に参列した親御さんから「ぜひ私の子と許嫁になってください」と言われるに違いない。
バラ色の人生だ。
あなたが彼女または彼氏とのデートをすっかり忘れてしまったとしよう。
相手が電話をかけてくる。
「今どこ(怒)」
正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。
「あ、やべ。寝坊した。」
でもそれを堂々と言い換えてみよう。
「デートはRun Away!!」
もはや主語があなたではない。主語はデートである。あくまでも「デート」という主体が逃げ去っていったのである。
「私がデートを忘れていた」のではなく「デートが逃げていった」という鉄壁の責任転嫁。
「デート」という概念にすら主体性を認める姿勢。
あなたのその哲学的思考とかなりきわどい英語力に恐れおののいた相手は錯乱して
「結婚してください!! Marry me!!」
と叫ぶに違いない。そして子供が生まれるに違いない。英語は少子化をも解決する可能性がある。
あなたは壮烈なプレッシャーにさられている。
あなたは心の中で何度もつぶやくだろう。
「このプレッシャーから逃げ出したい。」
これは深刻だ。自然と苦渋に満ちた表情になるだろう。言い換えてみよう。
「このプレッシャーからRun Awayしたい。」
なんとなく、深刻さが薄れる気がしないだろうか。
少なくとも真面目な顔で考えているにしてはポップすぎる嫌いがある。
「逃げる」という日本語を「Run Away」という英語に置き換えることによって、肩の力がフッと抜ける。
それはひとえに英語の「無責任がゆるされるフレーバー」によるものなのだと思う。
追い詰められたとき、逃げ出したいとき我々は意気消沈してしまう。
そんな時には「Run Away」と呟いてみよう。
きっと無用な深刻さは逃げていくはずだ。