That's it.

それでおしまい.

占いで0.1歩

そんなものは当たるはずがないと鼻で笑っているにもかかわらず、インターネットや雑誌などのメディアに「占い」という文字が躍ると、無意識のうちにフラフラと引き寄せられてしまいます。

 

特に、新年とか新年度とか上半期終了時点とか「何かしらの変わり目」にはその傾向が強いです。

 

毎回「いや、未来というものは自分自身の努力で切り開くものなのだから、このようなナンパなものに惑わされてはいけないのだ」と戒めてはいるのです。

 

しかし、いざ占いの内容を読み始めると「ま、まさにワタクシが悩んでいたことと、その解決方法が載っているではないか!!」と興奮状態に陥り、コロリといなされるわけです。

 

そして、別に目下の問題は何一つ解決していないにもかかわらず「まぁ、いろいろあるけど頑張ろう」などと妙にスッキリして、明日が明るく見えるのですね。

 

何故このような現象が起こるのでしょうか。それは占いによって「0」が「0.1」になるからだと考えられます。

 

占いに関する知見の一つに、バーナム効果というものがあります。誰にでも当てはまる一般的なことを言われたときに、それをさも自分だけに当てはまるものだと捉えてしまう心理的傾向のことです。

 

恐らく、占いはこのような人間的機微を利用しているのでしょう。

 

誰にでも当てはまることが書かれているのだとすれば、占いは全く無意味に思えます。しかし、本当にそうでしょうか。

 

占いに頼りたくなる時というのは、大体において進むべき方向性が見えていない時です。そういう時だからこそ、誰にでも当てはまることが書かれている占いが役に立つと考えられます。

 

何故かというと、ひとまずの行動指針が定まるからです。先のバーナム効果の説明に従えば、占いにはある程度普遍的なことが書かれていることになります。

 

従って、それに沿って行動したところで致命的な失敗を犯す可能性は少なくなります。

 

どこに進めばいいのか分からない時に、自信をもって今後の行動指針を示すことができる人は多くはいません(そもそもそういう人は暗中模索状態に陥りませんし、多分占いの類も読みません)。

 

どこに進めばいいのかわからない、どう考えればいいのか分からないという状態は「0」です。そして、何事でもそうですが「0」から「1」を作り出すには相当な労力が必要です。

 

ただでさえ厳しいその状況で、そこから即座に自分なりのポリシーを生み出す、つまり「0」を「1」にするのは至難の業なのです。

 

しかし、占いは「1」こそ与えてくれないにしても「0.1」くらいは与えてくれます。誰にでも当てはまることが書かれているので、ひとまず、大外れがない道しるべを示してくれるからです。

 

例えば、占いに書かれている「あなたは外交的な面と同じくらい内向的な面を備えています」というアドバイスは、何の解決策も与えてくれませんが、ひとまず自分を振り返り、今後の振る舞いを決める契機にはなります。

 

とりあえずの道しるべが示されたら、しばらくはそれに沿って歩きつつ、自分の特性に合わせてポリシーを変更していけばいいのです。

 

「外交的か内向的と言われれば、どうやら外交的な面が強いので、もう少し周りと積極的にコミュニケーションを取ってみよう」というように当初のアドバイスをとっかかりにして自分を把握していくわけです。

 

そうすれば、いずれ「0.1」は「0.2」になり「0.3」になり「0.4」になり・・・と積み重ねが増えていき、段々と進む方向が明確に見えてくるはずです。

 

「何が分からないのか、それが分からない」というシチュエーションは理性の袋小路です。そこでさらに理性を働かせたとしても、必ずしも解決にはつながりません。

 

占いを妄信しすぎて壺とか水晶玉とか買わされるレベルになるとさすがに問題がありますが、初めの0.1歩を踏み出すきっかけとしては案外占いも捨てたものではないと思います。

Waiting man

数年前、就職時に健康診断書が必要だというので、近所のクリニックに行きました。

 

ところで、健康診断に臨むときのあの抵抗感は一体何なのでしょうか?

 

恐らく、健康診断を受診した結果、「健康じゃなかったらどうしよう」という不安感が健康診断への嫌な感じを醸成しているのだと思います。

 

そもそも今日、自信をもって自分は隅から隅まで「健康だ」と言い切れる人がいるのでしょうか?

 

酒を飲んでいる人は肝臓が心配で、煙草を吸っている人は肺が心配です。

 

酒も煙草もやらない人でも、日々の食事の栄養素の偏りが心配です。

 

健康維持のために有酸素運動をしている人はその運動から不可避的に発生する活性酸素が心配です。

 

どれだけ、健康に気を使っても(むしろ気を遣えば使うほど)、自分の健康に対する確固たる自信など得られないのです。

 

だから正面切って「オレは健康だ!」と健康診断に臨める人などいないのです。

 

健康診断に臨むストレスによって人々の健康が蝕まれている可能性(なんとまぁ)について厚生労働省は何らかの対策を打つべきでしょう。

 

さて、そのような「嫌な感じのする」健康診断ですが、その中でも血液検査と尿検査は突出して「嫌だ」と思う項目ではないでしょうか。

 

片や腕に針を刺され、片や自らの尿を細部まで調べられるのです。人を見た目で判断してはいけないと言いますが(最近では見た目が9割ともいわれますが)、何も「体液」までさらけ出さなくてもいいと思いませんか。何より、痛いし、恥ずかしいですしね。

 

そんなこんなで、私が健康診断に行ったその日は土曜日の午前中で、受付に着いた段階で来院者は私一人でした。受付カウンターの向こう側では数人の看護師さんが世間話に花を咲かせておりました(平和ですね)。

 

前日に予約をしていたので、受付の看護師さんに名前と健康診断を受ける旨を伝えたところ、世間話を中断されたのが気に障ったのか些かぶっきらぼうな対応を受け(平和ですね)、待合室のソファに座っておくように言われました。

 

しばらくして、名前を呼ばれ、検尿用のコップを渡されました。トイレで尿を採取し、トイレの向かい側にある小窓に提出するという要領でした。

 

いそいそとトイレに向かったのですが、そこで問題が発生しました。

 

出ません、尿が。

 

あろうことか私はクリニックに行くために家を出る直前に家のトイレで用を足してしまっていたからです。

 

想像できますでしょうか。クリニックの小綺麗なトイレで紙コップを片手に準備万端の姿勢でただ佇む男の姿を。待つべき尿は来ないのに。

 

想像できますでしょうか。乾いた紙コップを持って受付まで戻り、「尿検査は後でもいいですか?」と何事もなかったかのような顔で尋ねる男の姿を。何事もなかったことが問題なのに。

 

 

事態を察した看護師さんは、「あ、じゃあ別の検査からするので、少し待っててください」と何事もなかったかのように(何事もなかったからこうなっているのに)答えました。

 

とにかく出さなければならない私は「何か飲みたいのですけど、自動販売機はありますか?」と受付の看護師さんに尋ねました。

 

看護師さんは待合室にウォーターサーバーがあるから、それを自由に飲んでください、と教えてくれました。

 

「いくらか水を飲めば出るだろう」と安堵したのもつかの間、このウォーターサーバーがまた曲者でした。

 

紙コップに水を注ぐごとに「ゴボボボボッ」という結構派手目な音を立てるのです。その音が待合室に響き渡るのです。

 

とにかく出さねばならない私は4、5杯は水を飲みました。そのたびに待合室、ひいては受付にまで響き渡るゴボゴボ音。羞恥、ここに極まれりという思いでした。健康診断に臨んだ私は、「ゴボゴボ鳴るウォーターサーバー恐怖症」という病を患いました。

 

 

その後、身長と体重の測定とか採決とか問診とか心電図検査とががあり、件の紙コップリターンから15分経過したのに、まったく尿意は訪れませんでした。

 

尿検査以外の検査がすべて終了した段階で、先ほどとは別の看護師さんが「日を改めて来てもらってもいいですよ」という優しさなのか、いじめなのかよくわからない提案をしてくれました。

 

想像してみてください。大方の健康診断だけが終わったその数日後に尿を出すためだけに来院する男の姿を。何かしらの刑罰なのでしょうか。

 

「このクリニックの近所の自転車屋さんにパンク修理を頼んでいるので、それが終わるまで待たせてもらっていいですか?(なにとぞ尿検査を終わらせて帰らせてください)」という考えられる限り最高の返答を叩き出して、私はクリニックで「出るまで待つ」作戦を敢行することとなりました。

 

誰もいない待合室でkindleという先端的ガジェットを使って「『いき』の構造(九鬼周造)」を読み、伝統的日本文化への理解を深めながら、尿を出すために5分ごとにゴボゴボ音を鳴らすウォーターサーバーで水分補給するという、まったく「いき」でない時間。

 

健康診断の前にトイレに行くという愚行を犯した能無し男は、クリニックのロビーでただひたすら尿意を待つだけの尿無し男になり果てたのでした。

 

しばらくして念願の尿で紙コップを満たした私は、診断書の受け渡し日を確認するや否や、電光石火でクリニックを後にしました。

 

健康診断前のトイレ、ダメ絶対。

カツオ人間に関するいくつかの疑問

カツオ人間、というゆるキャラをご存じでしょうか。

 

高知県を代表する名前そのままの愛くるしさとほのかな生臭さを感じさせるキャラクターです。

 

今回はそのカツオ人間についていくつかの問題を提起してみたいと思います。

 

1.ぶつ切り問題

最初の問題は、カツオ人間のその強烈なビジュアルに関するものです。カツオ人間のバックショットを見れば即座に分かりますが、カツオ人間の頭部には胴体を真っ二つに切断されたカツオが載っています。

全くゆるくない事態であることは確かです。骨と血合いが丸見えという極めてバイオレンスな見た目は完全にスプラッター映画のそれだといえます。

「ねぇねぇ、カツオ人間のあの赤いところはなに?」と我が子に聞かれたときに、世の親御さんは一体どう答えればよいのでしょうか?

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2.生物学的・分類学的な名前問題

次の問題は、カツオ人間のネーミングに関するものです。普通、キャラクターに名前を付ける場合は、そのキャラクター固有の名前を付けます。

 

例えば、愛媛県ゆるキャラには「みきゃん」という名前がついていますし、熊本を代表するゆるキャラである若干目がイッてるあの熊には「くまもん」という名前がついています。

 

つまり、ゆるキャラには我々人間と同じように「個体識別名」がついているのが普通なのです。だから、「秋山」という名字を持つみきゃんや「北里」という名前のくまもんというものは存在しないのです。

 

一方、「カツオ人間」というネーミングは「種」を区別する呼称です。「人間」とか「犬」とか「魚」とかいう生物学的な分類を示す呼び方です。言うなれば「カテゴリ名」です。

 

ということは、「カツオ人間」にカテゴライズされる個体が複数存在する可能性が生じてきます。

 

つまり、個体識別できる名前を持つ「カツオ人間」がある程度の数で存在すると考えることができます。「坂本」という名字を持つカツオ人間や「龍馬」という名前のカツオ人間が現に存在しているかもしれないのです。

 

冷静に考えると結構恐ろしい事実です。カツオの輪切りを頭部に乗せた個体がそこかしこに存在している日常というのは、もはや日常とは呼べないでしょう。

 

3.ゼナ問題

栄養ドリンク「ゼヨ」という奇怪な飲み物があります。何やら一口飲んだだけで脱藩し、勝海舟に弟子入りし、亀山社中を立ち上げ、薩長の同盟に一役買い、最後には近江屋で暗殺されそうな雰囲気がする飲み物ですね。

 

この「ゼヨ」、明らかに大正製薬の「ゼナ」を意識しています。というか一文字変えただけです。パ〇リと言われても仕方がないのではないでしょうか。

 

なかなかきわどい商品と言えます。そして、その「ゼヨ」のパッケージの中心にドカッと腰を据えているのが何を隠そうカツオ人間なのです。

 

一県を代表するキャラクターがきな臭い商売行為に加担している事実を見逃すことはできません。

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4.それでもよい、カツオ人間最高

ここまでカツオ人間について多角的に検討してきましたが、実はそんなものはどうでもよいのです。私はこのゆるキャラが大好きなのです。

 

素晴らしいと思いませんか?

 

世はゆるキャラ戦国時代。世のゆるキャラが民衆に向かって可愛らしさ、愛嬌、丸っこさ、親しみやすさなどを強烈にアピールする中、カツオのぶつ切りに胴体を引っ付け、手足を生やしただけという潔さ。愛嬌のかけらもありません。

 

それだけに飽き足らず、血合いまで見せる剛胆さ。可愛らしさなどどこ吹く風です。

 

加えて、パ〇リ臭漂うきわどい商品にも正面からの写真を堂々と乗せる気前の良さ。ゴーイング・マイウェイですね(正面から見るとその魚類っぽさがいかんなく発揮されますね)。

 

 私にはこのような出鱈目なカツオ人間の振る舞いこそが「ゆるい」という概念とマッチしていると思うのです。

 

可愛らしい「ゆるキャラ」は全国にたくさんいます(当然ですけど)。

 

でも、そのゆるキャラたちは「ゆるキャラは可愛らしくあらねばならない」というルールでガチガチに自分たちを縛っている感じがします。

 

その有様は果たして「ゆるい」と言えるのでしょうか?

 

恐らく、カツオ人間はそのアイデアが出た時点で既に「ゆるかった」のではないかと思います。

 

ウィキペディアによると「2007年に株式会社 山西金陵堂が、高知を代表する魚「鰹」をもとにキャラクター化。」したらしいとのこと。

 

詳しい内情は存じ上げません。しかし、何はともあれ、強烈なビジュアルを持つカツオ人間を「ゆるキャラ」として採択してしまう圧倒的な「思考のゆるさ」がそこに垣間見えます。

 

カツオ人間は、緊迫したミーティングの末、満を持して「これでいこう!」と気張った感じではなく、酒でも飲みながら「まぁ、これでええんやないの?」というフニャフニャした流れの中で生まれてきたのではないかと想像します(山西金陵堂様、違っていたらすみません)。

 

「ゆるさ」はキャラクターのビジュアルから感じ取るものではありません。そのキャラクターを生み出した「思考のゆるさ」を感じ取ったときに、人は「ゆるい」と感じるのです。

 

だから、カツオ人間は「生粋のゆるキャラ」なのです。

 

以上ゼヨ。

卵@

LINE@というサービスをご存じだろうか。LINE BUSINESS CENTERのHPでは「LINE@とは、ビジネスや情報発信にご活用いただける会社/事業者向けLINEアカウント」と説明されている(https://business.line.me/ja/services/lineat)。

 

 

アカウントと友達になっている顧客、ユーザーにメッセージを一斉に配信できたり、ユーザーと企業が1対1でコミュニケーションできたりするものらしい。企業と顧客がやり取りするためのLINE、と考えればよいだろう。

 

 

LINE@という言葉は聞いたことがあり、実際に何社かの企業アカウントと友達になっていて、時々広告的な情報が送られてきていたので、「情報を一斉送信する機能」があるのだろうな、ということには薄々気づいていた。

 

 

しかし、企業アカウントと1対1でコミュニケーションできる機能まであることは全く知らなかった。

 

 

その機能を知ったのは、先日、お世話になっている銀行の方とお話をしたときである。銀行のLINE@アカウントと友達になると、景品が当たるくじ引きに応募できるというキャンペーン中だったので、早速銀行のアカウントと友達になった。

 

 

金融商品に関する情報がたまに送信されてくるのだろうと思っていた私に担当者が言った。

 

 

「何かメッセージを送ってみてください。そのメッセージに関係した金融商品の情報が返ってきます。」

 

 

そんな機能があったのか、と驚いた私は「マイカーローン」の情報が返ってくることを予測して、「車」という言葉を銀行アカウントに送信した。すると見事にマイカーローンに関する情報を含むメッセージが返ってきた。

 

 

面白かったので「年金」とか「投資信託」とかというワードをバシバシ送って反応が返ってくるかどうか嬉々として試していたら、担当者に「そんなに関心を持ってくれた人は初めてですね(笑)」とあきれたような顔で言われてしまった。企業アカウントとやり取りできる機能の存在は割と一般的な知識らしかった。

 

 

用事が終わり担当者と別れて、帰り道を歩いているときに、近所のスーパーのLINE@アカウントと友達になっていることを思い出した。そのLINE@アカウントからは時々安売り情報(というか見切り品情報)が送信されてきていたのだった。

 

 

そのスーパーは特定の日に卵が普段の20円引きになる。更に卵だけでなく、野菜も値引きされる。私はいつも卵が安い日にそのスーパーに行き、いつも決まったように卵とオクラと山芋を買っていた。

 

 

スーパーの店員さんにバックヤードで「卵野郎」とか「オクラ乞食」とか「山芋人間」とかという仇名をつけられていてもおかしくないレベルで執拗にルーティーンを繰り返していたのである(卵とオクラと山芋が好きなのだから仕方がない)。

 

 

私はそのスーパーのLINE@アカウントと友達になっている。以前の私はスーパーから送信されてくる見切り品情報を一方的に受信するだけのパッシブ卵野郎だった。

 

 

しかし、今の私は、こちらからスーパーにメッセージを送信できることを知ったアクティブ卵野郎である。

 

 

果たしてどのようなメッセージが返ってくるのか?

 

 

卵野郎は満を持して「卵」というワードをスーパーのLINE@アカウントに送信した。

 

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既読、じゃねーよ!!何かしら反応しろよ!!送った自分がバカみたいに見えるだろ(バカだけど)!!そんで翌日何事もなかったかのようにしれっと違う商品の情報送ってくるのやめろよ!!悲しくなるだろ。

 

 

怯えています。スーパーのスタッフたちの間で私の顔と名前が一致することに。

 

 

「卵野郎がLINEでも『卵』って送ってきたwwww」と笑われていないか心底怯えています。

 

 でも、これからも足繁く通わせてもらいます。地域で頑張るスーパー、万歳。

真面目の入れ子構造

真面目な人はその性格故に対人関係からストレスを感じることが多かったり、心の病を発症しやすいといいます。

 

そのような人たちに対しては「もっと肩の力を抜いて」とか「物事を適当にやることを覚えて」とかいうアドバイスが送られることが多いようです。

 

つまり「非真面目」的なやり方を身に着けてみようという提案がなされます。

 

しかし、このアドバイスは生真面目な人たちにとって効果的と言えるのでしょうか。

 

何故そう思うのかと言うと、生真面目な人はその「真面目でない」生き方を推奨するアドバイスに対しても、やはり「真面目」に取り組もうとするのではないか、と思うからです。

 

例えば、「もっと肩の力を抜いてみよう」と言われたら、必死で肩の力を抜こうと努力してしまい、「適当にやることも大事だよ」と言われたら、適当に取り組むことに全力を注いでしまう。そういうことが起こってしまう可能性はないのでしょうか。

 

問題は、結局のところ「物事に取組む態度そのもの」や「思考の仕方そのもの」は変わっていないという点にあります。「真面目でないこと」の実現を「真面目」に実行してしまうのです。

 

なので、普段と異なる行動をした場合にも、同じように真面目に取り組んでしまうので、失調をもたらした「真面目さ」という原因は取り除かれていないことになります。

 

 

ならば「やり方そのもの」、「考え方そのもの」を再構築すればよいと考えられますが、それはそれで、その「再構築の仕方」はやはり本人固有のものになるでしょう。生来真面目な人は真面目にやり方を再構築しようとするのです。そしてそのいたちごっこは何も真面目な性格に限った話ではありません。

 

 

「変えようと思う枠組み」を「変えるやり方」を変えることはできない(早口言葉みたいですね)。人はこの入れ子構造の中に閉じ込められています。

 

性格が変えられるか、変えられないかは分かりません。

 

ですが、変化を目指すにせよ、ありのままを受け入れるにせよ、私たちが縛られている「自分らしさ」の構造への理解が必要なのは間違いありません。

 

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人工知能とお付き合いする前に

AIはいずれ「道具」から「他者」に変わる。そして、ただの他者ではなく「超他者」「異質な他者」として人間の前に現れる。だから、AIと生きていくために、私たちは「共生」について再考しなければない。

 

人工知能やAI(Artificial Intelligenceという言葉が世間をにぎわすようになって久しい。

 

つい先日開催された将棋の電王戦ではポナンザというAIが佐藤天彦名人を破った。

 

AIは日々驚異的なスピードで進化を続けている。実際に、囲碁という限られた局面だけでなく、日々の生活にもAIは活用されつつある。

 

AP通信では既にAIを使った企業決算ニュースの自動生成が行われているし(http://techable.jp/archives/43913)、AIがコールセンターのオペレーターを支援していたりする(http://o2o.abeja.asia/product/post-10262/)。

 

AIはその高性能で人間の生活をより便利で豊かにしてくれる。しかし、一方ではAIの登場が人間の暮らしを脅かすという予測もある。

 

2013年に発表されたTHE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION? (Carl Benedikt Frey and Michael A. Osborne)では、人工知能を含むコンピュータの急速な進化によって、今後10年のうちに「消える」職業について分析されており、人間の仕事がAIに「取って代わられる」可能性を示唆している。どうやらAIの驚異的な進化を手放しで喜べるという状況でもないらしい。

 

上記で紹介したもの以外にもAIの活用事例やAIの弊害について書かれた情報は数多ある。

 

ただ、私が気になるのはそれらの情報の中でのAIの扱いである。

 

数ある情報のどの文脈においてもAIは「その高性能によって人間生活に変化をもたらす『道具』」として語られる。

 

AIはその能力の高さによらず、意思疎通の対象ではなく、道具なのである。

 

しかし、AIをあくまでも「道具」として捉えるには「AIが人間に追いつくのは遠い未来の話である」という前提に立つ必要がある(実際そうなのかもしれないが)。

 

ただ、AIがいつまでも単なる道具としてその存在を留めると考えるのは、進化のスピードを見るに、楽観的すぎる推測に思える。

 

恐らくいずれAIは人間と完全にコミュニケートできる存在として私たちの前に現れる。それはPEPPERと会話ができるというレベルの話ではなく、「人間と寸分違わない」レベルで会話ができるAIが登場するということである。

 

その時AIは「道具」ではなく「他者」として私たちの前に現れる。しかも「人間ではない他者」として。それは「超他者」であり「異質な他者」である。

 

いずれ「異質な他者」と対話していかなければならない。私たちに「理解を超えた他者と共に生きていく」素地があるだろうか。

 

今日の私たちは「人間の他者」とすらうまく折り合えずに暮らしている(国境に壁を作ろうとしている権力者を見れば分かる)。

 

同じ人間でありながら、国と国で戦い、宗教観で諍い、人種の違いでもめて、家族や同僚とギクシャクしている。

 

他者との共生という人類学的課題について、私たちはまだ解決策を見いだせていない。だが、AIという存在について考えるとき、そのトピックの先端性に引っ張られて思わず忘れそうになるが、結局は「他者との共生」という古くから扱われてきた問題にたどり着いてしまう。

 

先に紹介したOsborneの論文では、コンピュータの爆発的な進化が進む中で人間に求められる重要な能力の一つとして「ソーシャル・スキル」が挙げられている。ソーシャル・スキルとは端的に言えば「他者と生きる術」のことである。

 

差し当たり私たちは「人間の他者と共生する」ことについて再考する必要があり、いずれは「異質な他者との共生」について試行錯誤することになるだろう。

 

AIについて考えることは「他者とどう生きていくのか」を考えることなのだと思う。

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ガスの元栓と私の元栓

引っ越し先でガスを使えるようにするため、ガス会社の人に立ち合いをお願いしました。

 

前日の電話で「10時30分から11時の間に伺います」と言われておりましたので、10時25分くらいに引っ越し先に行き、ガス会社の人を待っていました(まだ旧住所で寝泊まりしているからです)。

 

10時30分になりました。ガス会社の人はまだ来ません。待っているうちに、トイレに行きたくなりました。

 

しかし、トイレットペーパーを持って来るのを忘れるという痛恨のミスを犯したせいで、水こそ流れるものの、新居のトイレを使うことはできません。

 

使えるトイレといえば、近くのコンビニしかない状況でした。

 

「まぁもう少しで来るだろうし、作業自体も10分程度で終わるだろうから、待とうか。」

 

その判断が後の悲劇を招くことになるのです。

 

10時35分になりました。ガス会社の人はまだ来ません。その間にトイレ我慢信号は青から黄色点滅に変わっていました。

 

「ここで手を打たなければ・・・負ける」

 

そう判断した私は、コンビニのトイレ行きを決めました。階段を駆け下りて駐車場にたどり着いたちょうどそのとき、全身黄色にカラーリングされたガス会社の軽トラがやってきました。

 

「どう考えも私の方が黄色信号なんですけど」などと訳の分からないことを頭の中でつぶやきながら、ガス会社の人に挨拶して部屋まで案内しました。

 

ガス会社の人は伊勢谷友介にも似たイケメンのお兄さんでした。

 

台所に案内すると、伊勢谷は慣れた手つきで作業を進めていきます。

 

一方、トイレに行くタイミングを逸した私の我慢信号は黄色点滅から黄色になっていました。

 

「まずい、五分五分になった、非常にまずい。」と心の中でつぶやきます。着々と戦況は悪化していきました。

 

「ガスの元栓開けてきますねー!」と伊勢谷が言います。

 

伊勢谷、開けてこい。可及的に速やかに開けてこい。でないと私の元栓が開いてしまう。

 

蛇口をひねって伊勢谷は言います。「お湯が出るか確認するので水出しますねー!」

 

伊勢谷、出せばよい。好きなだけ出せばよい。でないと私が尻から出すことになってしまう。

 

無事お湯が出ることも確認でき、立ち会いは終了かと思いましたが、伊勢谷はまだ何やら作業を続けています。

 

我慢信号が黄色から赤点滅に変わりました。劣勢です。後半42分、0対3のビハインドくらいの劣勢です。

 

その時突然ガス検知器が警告音を発しながら、赤いランプを点滅させはじめました。

伊勢谷が何かしら設定を間違えていたようです。伊勢谷は作業の手を止め、検知器をいじり始めました。

 

「伊勢谷ぁぁ、検知機も警告音を出しているかもしれないが、私の尻でも警告音がなっているのだぞ、そして赤く点滅しているのは検知器のランプではなく、まさしく私の尻だぞ伊勢谷ぁぁぁ」

 

もはや冷静な思考能力を失った私は脳内で喚き散らします。

 

その時伊勢谷が何やら書類を差し出してきました。

 

「ご本人様以外の緊急連絡先を記入していただけますか?」と伊勢谷。

 

伊勢谷よ、君はまさに今、そのご本人である私が(正確には私のお尻が)「緊急事態」を迎えているのを心得たうえで「緊急連絡先」などと口走るのかね。皮肉が効いてていいじゃないか。

 

尻に全意識を集中させて書類を書いている間も、伊勢谷は持ち込んだ機械で何やら数値を図っていました。

 

ガスの栓を開けようとする伊勢谷、尻の栓を締めようとする私。

 

伊勢谷は気体と闘い、私は個体と闘う。

 

出てこい気体、出てくるな個体。

 

美しい二項対立のうちに進むガスの開栓作業と遠のく意識。

 

それは無限にも思える時間であり、すべてがスローモーションに見えました。あれがいわゆる「ゾーン」というやつだったのでしょう。

 

ゾーンに入った状態でその他2、3の書類にサインをしたところで立ち合いは無事終了し、伊勢谷は帰っていきました。

 

私はといえば近所のサークルKにヨチヨチ歩きでなんとかたどり着き、事無きを得ました。ありがとうサークルK。私はこれからコンビニはサークルKしか使わないと誓います。

 

今回の闘いから学んだのは、「ガスの開栓作業は大体20分くらいはかかる」ということと「黄色点滅はセーフではない」ということと「赤点滅だからといって必ずしもアウトではない」ということでした。また「ゾーン状態で書類が書ける」事実を発見しました。

 

実り多きこの良き日に感謝します。

 

キツかった。

 

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