That's it.

それでおしまい.

人工知能とお付き合いする前に

AIはいずれ「道具」から「他者」に変わる。そして、ただの他者ではなく「超他者」「異質な他者」として人間の前に現れる。だから、AIと生きていくために、私たちは「共生」について再考しなければない。

 

人工知能やAI(Artificial Intelligenceという言葉が世間をにぎわすようになって久しい。

 

つい先日開催された将棋の電王戦ではポナンザというAIが佐藤天彦名人を破った。

 

AIは日々驚異的なスピードで進化を続けている。実際に、囲碁という限られた局面だけでなく、日々の生活にもAIは活用されつつある。

 

AP通信では既にAIを使った企業決算ニュースの自動生成が行われているし(http://techable.jp/archives/43913)、AIがコールセンターのオペレーターを支援していたりする(http://o2o.abeja.asia/product/post-10262/)。

 

AIはその高性能で人間の生活をより便利で豊かにしてくれる。しかし、一方ではAIの登場が人間の暮らしを脅かすという予測もある。

 

2013年に発表されたTHE FUTURE OF EMPLOYMENT: HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION? (Carl Benedikt Frey and Michael A. Osborne)では、人工知能を含むコンピュータの急速な進化によって、今後10年のうちに「消える」職業について分析されており、人間の仕事がAIに「取って代わられる」可能性を示唆している。どうやらAIの驚異的な進化を手放しで喜べるという状況でもないらしい。

 

上記で紹介したもの以外にもAIの活用事例やAIの弊害について書かれた情報は数多ある。

 

ただ、私が気になるのはそれらの情報の中でのAIの扱いである。

 

数ある情報のどの文脈においてもAIは「その高性能によって人間生活に変化をもたらす『道具』」として語られる。

 

AIはその能力の高さによらず、意思疎通の対象ではなく、道具なのである。

 

しかし、AIをあくまでも「道具」として捉えるには「AIが人間に追いつくのは遠い未来の話である」という前提に立つ必要がある(実際そうなのかもしれないが)。

 

ただ、AIがいつまでも単なる道具としてその存在を留めると考えるのは、進化のスピードを見るに、楽観的すぎる推測に思える。

 

恐らくいずれAIは人間と完全にコミュニケートできる存在として私たちの前に現れる。それはPEPPERと会話ができるというレベルの話ではなく、「人間と寸分違わない」レベルで会話ができるAIが登場するということである。

 

その時AIは「道具」ではなく「他者」として私たちの前に現れる。しかも「人間ではない他者」として。それは「超他者」であり「異質な他者」である。

 

いずれ「異質な他者」と対話していかなければならない。私たちに「理解を超えた他者と共に生きていく」素地があるだろうか。

 

今日の私たちは「人間の他者」とすらうまく折り合えずに暮らしている(国境に壁を作ろうとしている権力者を見れば分かる)。

 

同じ人間でありながら、国と国で戦い、宗教観で諍い、人種の違いでもめて、家族や同僚とギクシャクしている。

 

他者との共生という人類学的課題について、私たちはまだ解決策を見いだせていない。だが、AIという存在について考えるとき、そのトピックの先端性に引っ張られて思わず忘れそうになるが、結局は「他者との共生」という古くから扱われてきた問題にたどり着いてしまう。

 

先に紹介したOsborneの論文では、コンピュータの爆発的な進化が進む中で人間に求められる重要な能力の一つとして「ソーシャル・スキル」が挙げられている。ソーシャル・スキルとは端的に言えば「他者と生きる術」のことである。

 

差し当たり私たちは「人間の他者と共生する」ことについて再考する必要があり、いずれは「異質な他者との共生」について試行錯誤することになるだろう。

 

AIについて考えることは「他者とどう生きていくのか」を考えることなのだと思う。

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