玄関ナウ
待ち合わせをしている相手に電話を掛ける。電話に出た相手が答える。
「今、玄関」
その返答を受けて、頭に思い浮かぶのは靴をつっかけ、ドアノブに手を掛けながら、今まさに家を出ようとしてる人の姿だろう。
「玄関」はそもそも出入りのための空間なのであるから、「今、玄関にいる」という言葉が意味するものは、「今から家を出ようとしている」または「目的の家の玄関に到着した」のどちらか2つに絞られる。
つい先日まではそう思っていた。
しかし自身の経験を通して「今まさに玄関にいる」という言葉には至極シンプルな意味合いがあることが分かった。
12月10日(土)の朝、6時50分に集合して遠出することになっていた。
5人で待ち合わせをしていた。
集合場所までの移動時間を考えると最低でも6時30分には家を出なければならない。
前日に早く寝ていれば全く問題なく起きられる。ノープロブレム。
しかし、前日は飲み会だった。
ただ、過去の経験からして日付が変わる前に切り上げれば、確実に朝起きられだろうと判断した。
「締め切り効果」というものがある。エンドポイントが設定されることで物事に対する集中力やパフォーマンスが活性化する心理的作用のことだ。
「日付が変わるまで」という締め切りを設定し、飲み会に対する集中力が高まってしまった僕は、いつにもましてハイペースで飲み、天敵である日本酒にまで手を出した。
ただ、結果的には当初の予定通り日付が変わる前には飲み会を切り上げ帰路についた(奇跡と言ってよいだろう)。
電話が鳴っている。待ち合わせをしているうちの一人からだ。
「おはよう。今どこ?」
携帯のディスプレイに写った時間は、6時50分を示していた。
僕は現在の状況を正確に報告した。
「今、玄関」
相手は苦笑しながら答えた。
「お前、寝坊しただろう(笑)。まぁ今から家を出るなら大丈夫だから急げよ~。」
恐らく相手は僕の「今、玄関」という発言から「あいつは今まさに家を出ようとしている」と断定したのだと思う。
しかし、「今、玄関」と答えた僕は電話を耳にあて、天井を見上げていた。
玄関で。寝転がったまま。
前日に家に帰った僕は玄関で寝ていたのだ。
つまり僕が電話越しに発した「今、玄関」という言葉は、文字通り「現在、僕という存在は玄関に位置している」という正確無比で純粋な非の打ちどころのない報告だったのだ。
その報告は「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムの模範になりえたと自負している。
キュレーションメディアによる著作権侵害、科学論文のねつ造問題などどこ吹く風。完璧な出典と厳密な報告。
「今、玄関」という言葉には「今から家を出ようとしている」、「目的の家の玄関に到着した」という意味に加えて、「私は今まさに玄関に存在している」という根本的な意味合いがあるのだ。
ファッションショーのごとき早着替えと競輪選手のごとき健脚で10分遅れで集合場所に到着した。
お待たせした皆さん本当に申し訳ございませんでした。深く反省しております。
遅刻、ダメ絶対。今週も頑張りましょう。
おかえり拡大家族
「おかえり」と言われれば「ただいま」と返す。当然のやり取りだ。
でも最近この極めてノーマルなコール&レスポンスに悩んでいる。
現在の住居に引っ越してきて3年が経とうとしている。
時間の流れに比例してご近所の方々との仲も深まった。田舎ならではの温かい人間関係。
しかしその関係性が悩みの引き金になったのだ。
職場を出て自転車で自宅を目指す。家が近づいてくる。そこでご近所さんに遭遇する。
僕は「こんばんはー」と明るく挨拶する。
その時ご近所さんが「おかえりー」と返してくる時がある。
どうすればいいのだ。このご近所さんからの「おかえりー」に対してはどう返すのが正解なのだ。
「ただいま」だろうか?
距離が近すぎやしませんかね、それは。そのままご近所さんの家に身内のような顔して帰宅するような勢いを感じてしまう。
だとすればもう少し距離感を出してみよう。
「ただいまです」
乱れてますね日本語が。きっとそんな言葉づかいをしようものなら「最近の若い子は正しい日本語も使えないのね」と訝しがられ、村八分を食らうに違いない。恐ろしや。
ではその乱れを修正してみよう。
「ただいまかえり候」
隠しきれない「僕の前世は武士なんですよ」感。言葉の乱れは修正できたかもしれないけれども、今度は「あの子ちょっと頭がオカシイのかしら」と訝しがられ、速やかに村八分を食らうに違いない。あな恐ろしや。
八方ふさがりの感があるが、発想を転換してみよう。
何も日本語にこだわる必要はない。英語で返せばいいのだ。
「本当は感謝の気持ちを込めて『ありがとう』と言いたいのだけれど、気恥ずかしいから『サンキュー』と言ってしまう」というアレだ。
僕「こんばんわー」
ご近所さん「おかえりー」
僕「I'm home !」
高すぎる。テンションが。確かにテンポはいいのだが、テンションに依存しすぎている。
このままでは「あの子やけにテンションが高いわね。クスリでもやってるのかしら」と訝しがられ、一瞬で村八分を食らうに違いない。oh my god !
じゃあなんて言えばいい!なんて言えばいいの!
苦心惨憺した挙句、僕はある解答にたどり着いた。
「おかえりー」と言われたら躊躇なく「ただいまー」と返せるような関係を構築すればいいのだ。それも地域全体で。
核家族化、個人の原子化が叫ばれて久しい。マンションに暮らしていれば隣に誰が住んでいるのか知らないという状況がもはや当たり前になっている。
それに伴って「相互扶助」とか「支え合い」といったタームを用いて「地域」が語られることも少なくなった。
「地域」は今、共同体としての機能を失っている。
それが「おかえりー」に対して「ただいまー」と返せない原因なのではないか。
だから「近所づきあいなんてメンドクサイから俺のことは放っておいてくれ」なんて言ってないで、いま住んでいる地域の世帯が一様に疑似的な「家族」であるような関係性を構築すればいいのだ。
それは共同体としての機能を地域に復活させることを意味する。
シェアハウスとかカーシェアリングとかに注目が集まるのは、今の時代に生きる人が心の奥底では他人と「共同」することを求めているからではないだろうか。
具体的な手段について何も書いていない状態でそんなことを言うのもおかしいが、そのような「共同的な地域」はものすごく住みやすいと思う。
他人を排斥するのではなく、他人に頼り他人に頼られる関係性の中で過ごすこと。
地域全体がまるで1つの「拡大家族」であるような生活。
それが今求められている「くらし」の姿なのかもしれない。
「おかえり」「ただいま」に関する話がこのような結論に着地したことにワタクシが一番驚いております。
「根はいい人」は「枝葉もいい」んじゃないかな問題
弁当普通サイズでいい?
ある発言や行動がどのように受け取られるかを決めるのは、積み重ねてきた日頃の発言や行動である。
常に弁当のご飯が大盛りでたまにパンを追加で食していて晩御飯の前にマックのポテトを召し上がる、という人がいたとしよう(2回目の登場)。
その人がある日普通サイズの弁当を頼んだと仮定する。
常に弁当のご飯が大盛りでたまにパンを追加で食していて晩御飯の前にマックのポテトを召し上がるはずなのに、注文した弁当が普通サイズだった場合どう思うだろうか。
「いつも大盛りなのにどうしたんだろう?体調でも悪いんだろうか?」と日頃の行いから推察してしまうはずである。
その人は実はひそかにダイエットを決意したのかもしれない。
でも一番最初に頭に浮かぶのは「小食化→ついに身体にガタが来たか」という悲劇のストーリーだと思う。アーメン。
日頃の発言や行動が、ある時点での発言や行動の意味合いを決める。
昼ではなくて夜を減らそう!
エビ友達
ある事柄で繋がっている関係を〇〇友達とか〇〇仲間とか言うことがある。
お酒で繋がっていれば飲み友達、スノボーならばスノボー仲間というように。
ならば〇〇に入る言葉が「エビ」だった場合、その関係は「エビ」によって繋ぎ止められていることになる。エビ友達。そんな関係がこの世に存在するのだろうか。
半年ほど前に家族でコンサートを聞きに行った際、昼前に会場付近に到着したこともあってどこかでお昼ご飯を食べることになった。
大体こういう時は父の希望でス〇ローになるのだけれども、その時も通常通りスシ〇ーで昼食をとることになった。
昼時で込み合っていたので家族3人でカウンター席に座ることになった。レーンの川上から父、母、私の順で着席した。
私の左隣には30代後半と思われる眼鏡をかけた彦摩呂という出で立ちの男性が座っていた。
「ほどほどにしとかないとコンサート中に寝まっせ」という母の忠告を右から左に聞き流して、父と私は真昼間からビールをガンガン飲み、唐揚げとごぼうの天ぷらと枝豆を貪っていた。
そんな意識の低いアル中(意識の高いアル中はいるのだろうか)二人の前をオーダーされたお寿司が流れていった。
同じテーブルにエビが5皿。大名行列ならぬエビ行列。思わず道端によけて深く頭を下げそうになった。
家族連れが注文したのかなーと思っていたら、すべて彦摩呂が注文したものだった。
着席した時から薄々気づいてはいたのだけれど、どうやら隣の彦摩呂はエビしか食べていない様子なのだ。既に15枚ほどの皿が積み重なっている。
エビ、エビ、エビ、ガリ、エビ、ガリ、エビ、エビという美しい旋律を奏でながらバリバリとエビを食していた。
そして、自らがオーダーするエビにとどまらず、レーンに流れてきたエビはすべて彦摩呂が平らげていた。
彦摩呂の川下には7人くらいお客さんが座っていたが、彼らにエビが届くことはなかった。もはや関所である。
どういうことだ。そんなにこの店のエビは美味しいのか。全国チェーンの〇シローの中でもエビが極度に美味しいことで有名な店なのかここは。
別に特段エビが好きでもないが、真相を解明すべく次に回ってきたエビを食べてみることにした。
しばらくすると、2皿のエビがレーンを流れてきた。
ものすごく美味しかった場合のことを考えて、2皿ともとった。
身体の左側に視線を感じた。
左を振り向くと眼をまん丸にした彦摩呂と目が合った。
「えっ、自分それとるの?」「今までいっさいエビに興味示してなかったやん?」そんな言葉が聞こえてくるかのようだった。
一瞬の沈黙(そもそも喋ってないけど)。時間が流れを止める。彦摩呂の眼に優しさが満ち溢れた。
「エビ、うまいよな。君もこの奥深い味がわかるんだろう?」「僕らの間に言葉はいらないよな、ブラザー?」そんな情熱的なワードが聞こえてくるかのようだった。
そう、ここにエビを介してつながる男同士の友情、エビ友達が誕生・・・
するわけない。
別に普通のエビだったわ。そんなに食べたら痛風になるわ。
というわけで、エビ友達は存在しない。
今週も頑張りましょう。
プリーズ・セレクト・マイ・ファッション
ワタクシに現実世界で複数回お会いになった方は、こう思うはずだ。
「あいつ、いつも同じ服着てない?」
いい質問ですね。正解だ。実際4種類くらいしか服を持っていない。
それはトップスの話で、ボトムスに至っては2種類しかない。
しかも最近ボトムスのうち1つは日頃のヘビーユーズが災いして、尻に穴が空いてしまい、再起不能になった。だから今ボトムスは1本しかない。
「買えばいいじゃないの」
素晴らしいご意見だ。僕もできることならそうしたい。でもできない。
服を買いに行くのが非常に恐ろしいからだ。
まず、上記のようなアイテム数しか保持していないワタクシには「服を買いに行く服がない」。どうだ、致命的だろう。
お店に入った瞬間に、ニット帽andエスニック柄のカーディガンandひざ丈の短パンandデッキシューズみたいなオシャレ界のアッラーのような店員さんに睨まれるに違いない。
この時点でかなり敷居が高い。
この守備ライン突破できる攻撃力はワタクシには備わっていない。
通常はここで逃げ帰る。三十六計逃げるに如かず。フハハ。
しかし、気配を消して店員さんの目線をかいくぐり、幸いにも入店できることがたまにある。
圧倒的オシャレオーラに負けそうになりながらも、陳列された商品を見ている分には何の問題もない。
しかしすぐさま「あの事態」が訪れる。
「何かお探しですか?」という店員さんのアプローチだ。僕は勝手に「寄せ」と呼んでいる。
いつも思うんですけど、何故この「寄せ」は服屋に限らずあらゆる販売店において主流になっているのでしょうか。
「何かお探しですか?」
探してます。確実に。入店している以上探しているでしょう、何かしら。
「何かお探しですか?」「いや~牛丼でも食べようかと思って」みたいな返しをする奴がいるのだろうか。かなりアブナイな奴だぞそいつは。
話が逸れた。
店員さんの「寄せ」に対しては2種類の作戦が考えられる。
まず、「これこれこういうものを探しています」と申し出て、素直に店員さんの力を借りる「従順作戦」。
次に「いや、見てるだけです」と「寄せ」を退け自分で好きなもの選ぶという「自主独立作戦」。
「自主独立作戦」を選べるのはおしゃれ上級者だけだ。
というわけで僕に残された選択は「従順作戦」だけになる。
ところが、この作戦には大きな問題がある。
ニット帽andエスニック柄のカーディガンandひざ丈の短パンandデッキシューズみたいなオシャレ界のアッラーのような店員さん(以後アッラーさん)と1on1になってしまうのだ。
そのプレッシャーたるや計り知れない。
凡人からファッションセンスを引き算した凡人vs神。
どうやって対等な会話をすればいいというのか。明確なアンサーがあるなら教えてほしい。
でもアッラーさんは懇切丁寧に「今年の流行りは~」とか「お客様の体型なら~」とか言いながら実に様々な提案をしてくれる。
神を前にしてそのご威光に仰け反っているワタクシは言われるがままに勧められたもの試着することになる。
ここで次の問題が発生する。あの「試着室」というterribleな空間の存在だ。
試着室で着るじゃないですか、持ち込んだ服を。そうすると外からアッラーが「着た感じどうですか~?」みたいなクエスチョンを投げてよこすじゃないですか。
分からない!そのセンスがあるなら最初から自分で選ぶ。試着室にしつらえられた鏡を見る限り、よくて52点だぞこれは。
百歩譲ってサイズ感は分かる。
でも果たしてそのデザイン、審美的な面がワタクシにジャストフィットしているかどうかなど、分かるわけがあるまい。逃げ場のない密室。アーメン。
返答に窮して「まあまあ」ですねという受け取り方によっては玄人感がある言葉を返して、カーテンを開ける。そこにはアッラーが立っている。
アッラーが「いいっすねー。サイズも丁度いいし。」的なポジティブ・フィードバックをくれたら諸手を上げて狂喜乱舞からの即購入win-winルートで、服を買うというアルティメット・アドヴェンチャーは幕を閉じる。めでたしめでたし。
しかし逆の場合、つまりアッラーが「あっ、いいですねー。でもちょっと他のパターンも試してみましょうかー」という、ふんわりとしたネガティブ・フィードバックがあった場合、それは地獄だ。The hell。
「僕にオシャレな服が似合うはずないのだ」「そもそもお店に入ること自体許されざる行為なのだ」と陰鬱憂鬱自己卑下ヒューマンがそこに現前する。
もはや服を選べるような精神状態ではないヒューマンは「もう少し考えてみます」というこれまた玄人感あふれる言葉でその場を濁して、逃げるように店を出るのだ。
そのような経験を幾度となく繰り返して気付いたことがある。
服を選ぶときに必要なのは地球上にただ一人でいいから「似合っている」と言ってくれる人の存在だ。
そして、それと同じくらい「それは似合っていない」とハッキリ言ってくれる人の存在だ。
ここまで書いて僕の脳裏に浮かんだ理想の服屋の店員さんはマツコ・デラックスだった。
なんとなく、似合っている場合には「まぁいいんじゃないの」とアンニュイな感じで言ってくれそうだ。
似合ってない場合には「アンタ、それは止めた方がいいわよ」とキッパリ言ってくれそうだ。
誰か、僕の服を選んでくれませんでしょうか。辛口で正直な人、お待ちしております。
プライベート・エレベーター
パブリック(公共)な場で思い切りプライベート(私的)に振る舞うことがもたらす快感はとても大きい。
その快感に囚われた愚かな男の悲劇について書く。
エレベーターはパブリック(公共)な面とプライベート(私的)な面が共存している不思議な乗り物だ。
エレベーターは基本的には不特定多数の人を運ぶパブリックな乗り物だ。
しかし、1人で乗った時、そこはいきなりプライベートな空間に変貌する。
バスや電車とは違い運転手や車掌がいない。人が乗ってくるにしても、音がなるからすぐに分かる。
つまり、1人でエレベーターに乗っている場合、「チーン」というエレベーターが止まる音が鳴らない限り、目的の階に至るまでの間、その空間は完全なプライベート・スペースになる。
そう、「チーン」という音を聞き逃さない限りにおいては。
学生の頃、研究室に携帯を忘れたことに気付いたので、取りに行った。23時ごろだった。
研究室は8階にあったので、エレベーターに乗った。
こんな時間に僕以外の人がいるはずがない。
高を括った僕は8階まで過ごすエレベーター内の時間を、完全にプライベートなものと見なした。
平時はパブリックな場所で、人目を気にすることなく思いきり私的に振る舞うこと。これがもたらす快感は大きい。
昼間は車がバンバン通る道に、夜中寝転がった時に感じる全能感。
普段は人でごった返している公園に夜中一人で佇むときに感じる高揚感。
その類である。
忘れ物を取りに行った時に乗ったエレベーターの中で、僕はそのようなプライベート快感に浸っていた。
その快感にそそのかされた僕はエレベーターの中で、敬愛するイチローがバッターボックスに入るまでの動作を完全再現することにした。
ネクストバッターズサークルでの股割、ゴルファーのような独特の素振り、バッターボックス手前での屈伸、地面をならす動作。
完璧な流れ。完全な再現。そして、締めの動作に入った。
イチローの代名詞、バットを掲げるあのポーズである。
エレベーターの扉に向かって、イチローになりきっている僕は、この上なく凛々しい表情でバットを掲げた。
エレベーターの扉が開いた。他の研究室に所属しているであろう女性がそこに立っていた。
楳図かずおの漫画に出てくる女性みたいな構図で悲鳴を上げて、女性は走り去っていった。
そりゃあそうなりますよね。エレベーターの扉が開いた時、そこイチローの物まねしてる、ドヤ顔の奴がいたら。しかも深夜に。
僕はこう書いた。
「チーン」という音を聞き逃さない限りにおいてエレベーターはプライベートな空間になる。
イチローモノマネwith楳図かずお事件が起こった時、僕はウォークマンでB'zの「ultra soul」を大音量で聞いていた。
「チーン」なんて聞こえなかったのである。
立ち尽くす愚かな男。その間も「ultra soul」は流れ続けた。
「夢じゃない、あれもこれも」
その通り。夢じゃない。現実でした。