That's it.

それでおしまい.

Waiting man

数年前、就職時に健康診断書が必要だというので、近所のクリニックに行きました。

 

ところで、健康診断に臨むときのあの抵抗感は一体何なのでしょうか?

 

恐らく、健康診断を受診した結果、「健康じゃなかったらどうしよう」という不安感が健康診断への嫌な感じを醸成しているのだと思います。

 

そもそも今日、自信をもって自分は隅から隅まで「健康だ」と言い切れる人がいるのでしょうか?

 

酒を飲んでいる人は肝臓が心配で、煙草を吸っている人は肺が心配です。

 

酒も煙草もやらない人でも、日々の食事の栄養素の偏りが心配です。

 

健康維持のために有酸素運動をしている人はその運動から不可避的に発生する活性酸素が心配です。

 

どれだけ、健康に気を使っても(むしろ気を遣えば使うほど)、自分の健康に対する確固たる自信など得られないのです。

 

だから正面切って「オレは健康だ!」と健康診断に臨める人などいないのです。

 

健康診断に臨むストレスによって人々の健康が蝕まれている可能性(なんとまぁ)について厚生労働省は何らかの対策を打つべきでしょう。

 

さて、そのような「嫌な感じのする」健康診断ですが、その中でも血液検査と尿検査は突出して「嫌だ」と思う項目ではないでしょうか。

 

片や腕に針を刺され、片や自らの尿を細部まで調べられるのです。人を見た目で判断してはいけないと言いますが(最近では見た目が9割ともいわれますが)、何も「体液」までさらけ出さなくてもいいと思いませんか。何より、痛いし、恥ずかしいですしね。

 

そんなこんなで、私が健康診断に行ったその日は土曜日の午前中で、受付に着いた段階で来院者は私一人でした。受付カウンターの向こう側では数人の看護師さんが世間話に花を咲かせておりました(平和ですね)。

 

前日に予約をしていたので、受付の看護師さんに名前と健康診断を受ける旨を伝えたところ、世間話を中断されたのが気に障ったのか些かぶっきらぼうな対応を受け(平和ですね)、待合室のソファに座っておくように言われました。

 

しばらくして、名前を呼ばれ、検尿用のコップを渡されました。トイレで尿を採取し、トイレの向かい側にある小窓に提出するという要領でした。

 

いそいそとトイレに向かったのですが、そこで問題が発生しました。

 

出ません、尿が。

 

あろうことか私はクリニックに行くために家を出る直前に家のトイレで用を足してしまっていたからです。

 

想像できますでしょうか。クリニックの小綺麗なトイレで紙コップを片手に準備万端の姿勢でただ佇む男の姿を。待つべき尿は来ないのに。

 

想像できますでしょうか。乾いた紙コップを持って受付まで戻り、「尿検査は後でもいいですか?」と何事もなかったかのような顔で尋ねる男の姿を。何事もなかったことが問題なのに。

 

 

事態を察した看護師さんは、「あ、じゃあ別の検査からするので、少し待っててください」と何事もなかったかのように(何事もなかったからこうなっているのに)答えました。

 

とにかく出さなければならない私は「何か飲みたいのですけど、自動販売機はありますか?」と受付の看護師さんに尋ねました。

 

看護師さんは待合室にウォーターサーバーがあるから、それを自由に飲んでください、と教えてくれました。

 

「いくらか水を飲めば出るだろう」と安堵したのもつかの間、このウォーターサーバーがまた曲者でした。

 

紙コップに水を注ぐごとに「ゴボボボボッ」という結構派手目な音を立てるのです。その音が待合室に響き渡るのです。

 

とにかく出さねばならない私は4、5杯は水を飲みました。そのたびに待合室、ひいては受付にまで響き渡るゴボゴボ音。羞恥、ここに極まれりという思いでした。健康診断に臨んだ私は、「ゴボゴボ鳴るウォーターサーバー恐怖症」という病を患いました。

 

 

その後、身長と体重の測定とか採決とか問診とか心電図検査とががあり、件の紙コップリターンから15分経過したのに、まったく尿意は訪れませんでした。

 

尿検査以外の検査がすべて終了した段階で、先ほどとは別の看護師さんが「日を改めて来てもらってもいいですよ」という優しさなのか、いじめなのかよくわからない提案をしてくれました。

 

想像してみてください。大方の健康診断だけが終わったその数日後に尿を出すためだけに来院する男の姿を。何かしらの刑罰なのでしょうか。

 

「このクリニックの近所の自転車屋さんにパンク修理を頼んでいるので、それが終わるまで待たせてもらっていいですか?(なにとぞ尿検査を終わらせて帰らせてください)」という考えられる限り最高の返答を叩き出して、私はクリニックで「出るまで待つ」作戦を敢行することとなりました。

 

誰もいない待合室でkindleという先端的ガジェットを使って「『いき』の構造(九鬼周造)」を読み、伝統的日本文化への理解を深めながら、尿を出すために5分ごとにゴボゴボ音を鳴らすウォーターサーバーで水分補給するという、まったく「いき」でない時間。

 

健康診断の前にトイレに行くという愚行を犯した能無し男は、クリニックのロビーでただひたすら尿意を待つだけの尿無し男になり果てたのでした。

 

しばらくして念願の尿で紙コップを満たした私は、診断書の受け渡し日を確認するや否や、電光石火でクリニックを後にしました。

 

健康診断前のトイレ、ダメ絶対。