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That's it.

それでおしまい.

「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という劇薬

他人は変えられないけれど自分は変えられるという言葉がある。

 

この言葉に自己啓発的な意味は一切ない。

 

「諦めを伴った人間関係割り切り方法」として手段的に、ストレス回避法的に用いられる場合に効果を発揮する実用的なツールだ。

 

「他人は変えられないけれど自分は変えられる」と字ずら通りに信じた人はその時点で「他者の変化可能性に対する信頼」を放棄することになる。

 

「他人は変えられない」という言葉を内面化することによって「私が何を言っても目の前にいるこの人は変化することはない」という命題に同意することになる。

 

その命題に同意した人の言動では他者との深いコミュニケーションを実現することはできない。

 

その人は心の中で「こいつには何を言っても変わらない」と思っているのだから。

 

なので会話のスタイルとしてコミュニケーションを断絶させる方法か過剰にサービス精神を発揮して「ヨイショ」する方法かのどちらかを採用することになる。

 

自分を「ディスコミュニケーション的」で「コミュニケーション軽視」な主体に変えてしまうのである。

 

断絶とヨイショ。どちらの方法を取った場合でも話し相手が自分の言葉に感化されて変化することはない。

 

コミュニケーションを断絶すればそもそも相手に自分の言葉が届くことはない。ヨイショしておけば本音を伝える必要はない。いづれにしてもコミュニケーションの深化は起こらない。

 

このように「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は、そのスタンスを取ることによって他者とのコミュニケーションを表面上で終始するように構造化してしまう。

 

だからどうしようもないクレーマーとか自分の話ばかりして意思疎通が取れない人とかと対峙する場合には絶大な効果を発揮する。

 

今目の前にいる他者との真摯なやり取りを諦めることによって精神的なダメージを最小限に抑えることができるからである。

 

そのような相手と対峙するときには「他者の変化可能性に対する信頼」はさっさと放棄した方がよい。ディスコミュニケーションに徹した方がよい。そもそも人の話を聴いていない人物に何を言っても無駄なのだから。

 

つまり「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は「常識的に考えて話が通じない人」とのやり取りにおいてコミュニケーションを切断し、自分をストレスから守る時に用いる極めて防衛的なツールなのである。

 

だから通常の人間関係に対して「他人は変えられないけれど自分は変えられる」というスタンスでは望まない方がよい。

 

それは相手と真摯にコミュニケートすることを避けていることになるのだから。

 

人間関係とかコミュニケーションをテーマにした本には「他人は変えられないけれど自分は変えられる!!(キラキラ)」という表現でそれがさもコミュニケーションの肝であるかのように書かれているけれども、それは絶対に違う。

 

「他人は変えられないけれど自分は変えられる」の意味するところは、

 

「(まともにコミュニケーションを取っていたら自分がストレスで壊れてしまうような)他人は変えられないけれど自分は(一時的にあえてコミュニケーション不全になってこの場をしのげるような状態に)変えられる」

 

というものである。

 

確かにストレスは避けられるが使いどころをよく考えていないと誰ともコミュニケートできない人になってしまう「劇薬」なのである。

 

 

 

というような話を正月母方の実家に帰る道すがら思いついたのですが飲み会に次ぐ飲み会で頭が全く回っておらずおまけに母方の実家についたら即ビール&日本酒というありさまでしたので、スマートフォンのメモ帳に残っていた「他人は変えられないけれど自分は変えられるというのは傲慢だ」というワードから何とか思考を引っ張り出して書きました。

 

人と話すときには「僕の話であなたの考えが変わるかもしれないし、あなたの話で僕の考えが変わるかもしれない」という姿勢で臨まないと相手に失礼だし、面白くないじゃないですか。ウェーイ。

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