That's it.

それでおしまい.

願いよりも感謝を

神様に手を合わせるときには何かを願うよりも日頃の感謝を伝えたほうがよい。

 

初詣や観光で神社に参拝することになって本殿の前で手を合わせている時、頭の中で何を考えているだろうか。

 

多分何かしらのお願いをしているはずだ。

 

「無病息災」とか「試験合格」とか「恋愛成就」とか、あるいは「有馬記念、お願いします!!」とかいうように「願いが成就すること」を祈っていると思う。

 

しかしそれは結構強欲な振る舞いではないだろうか。

 

「願いの成就」を祈念する人は「願い」が成就して初めて「神の恩恵」を感じることになる。

 

でも「神の恩恵」に与るのは本当に「願い」が成就した時だけなのか。「既に神の恩恵に預かっている」という視点が抜け落ちているのではないか。

 

考えてみてほしい。普段私たちは何事もなく毎日を過ごしている。しかし何故そのような安寧な生活が成り立っているのだろうか。

 

突き詰めればそれは「運」ということになる。私たちは事態の生起を完璧にコントロールすることはできないからだ。

 

日本は世界の国々に比して治安が良いことは間違いない。

 

しかしそれでも突然通りすがりの人に刺されるかもしれないし死亡事故に巻き込まれることもあるし痴漢冤罪で逮捕されることもある。

 

もちろんそれらの事態に遭遇する可能性を下げることはできる(危険な地域に住まない、常に安全運転をする、ラッシュを避けて電車に乗る等)。

 

けれども可能性は決して0%にはならない。

 

家から出ないという選択は偶然に命を奪う危険から限りなく遠ざかることができるけれども地震で家が倒壊して死んでしまうかもしれないし放火魔に家ごと焼き尽くされるかもしれない。

 

そう考えれば普通に生きていること自体が割と奇跡的なのである。

 

私たちが気ままに欲望を口にできるのも「何故か知らないけれども死や不幸を免れているから」に過ぎない。

 

つまり私たちは根本的に人知を超えた力の作用によって生きながらえているのである。

 

そして人知を超えた力を操るものは神と呼ばれる。

 

だから私たちは生きているだけで既に「神の恩恵」に預かっていることになる。

 

なので神社ではまず神様に対して今日まで生きられたことを感謝した方がいいと思う。

 

恋愛の神様とか学問の神様とかを前にした時も同じだ。

 

逆説的だが恋愛の神様とか学問の神様が伝えているのは「恋人ができますようにとか頭がよくなりますようにとか願っていてはダメですよ」ということなのである。

 

「生きているだけでありがたい。恋愛や学問を成就させるには自分の力で頑張らないといけない。」ということに早く気づきなさいよ、と言っているのである。

 

願いよりも感謝を。信仰心とはそういうものではないか。

 

 

ここまで書いて気付いてしまいました。

 

僕はしょっちゅう神様に「お願い」していることに。

 

「神様、どうかこの二日酔いという悪夢から私を救ってください。」

 

ダメみたいですね。

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お年玉をわたす側になってしまう

お年玉を「もらう側」でなくなって久しい。

 

それどころか最近はお年玉を「わたす側」としてのデビューが近づきつつあるのを如実に感じる。

 

父方または母方の実家に帰ると、甥なのか姪なのかはとこなのか何なのかよくわからないけれども「あなたと同じ血が流れていますよ20倍希釈くらいだけどね」というメッセージを送ってくる恐らく親族であると思われる乳飲み子がいたりするからである。

 

いづれ僕はこの20倍希釈親族的な子供にお年玉をあげることになるのだろう、と考えると時間流れというものを意識せざるを得ない。

 

僕らは誰しも小さい頃はお年玉の「もらう側」だった。この腐敗した世界に落とされたGod's Childだったのだ。どうか私とワルツを。

 

先日父方の従妹にお子さんが誕生した。今年の正月に父方の実家に帰省していたらしく、母親が写メール(いまだに)を送ってきた。

 

今にもこぼれ落ちそうな頬っぺたが愛くるしい1歳にも満たない男の子だった(以下頬っぺた)。

 

「お年玉だよ~」と僕は頬っぺたにポチ袋を渡す。

 

「え?これだけ?」何故か頬っぺたは喋る。

 

「お前はもっと貰ってきただろう?貰ったものは次の人に渡さないといけないよな?もっとちょうだいもっとちょうだいもっともっと」

 

真っ赤な目でニヤニヤしながら頬っぺたが僕の腕にしがみつく。振り払おうとしてもあり得ない力で腕を掴んでくる。

 

「じゃあお金の代わりにこの腕をもらおうかな」

 

 

 

 

 

という夢を1月3日に見ました。

 

年末年始に飲みすぎて文字通り1日中布団の中にいた時のことです。

 

貰ったものは次の人に渡さないといけない。

 

受け取るだけ受け取って与えない人には罰が下るという教訓をGodが教えてくれたのだと思っています。

 

いやー怖かった。

 

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「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という劇薬

他人は変えられないけれど自分は変えられるという言葉がある。

 

この言葉に自己啓発的な意味は一切ない。

 

「諦めを伴った人間関係割り切り方法」として手段的に、ストレス回避法的に用いられる場合に効果を発揮する実用的なツールだ。

 

「他人は変えられないけれど自分は変えられる」と字ずら通りに信じた人はその時点で「他者の変化可能性に対する信頼」を放棄することになる。

 

「他人は変えられない」という言葉を内面化することによって「私が何を言っても目の前にいるこの人は変化することはない」という命題に同意することになる。

 

その命題に同意した人の言動では他者との深いコミュニケーションを実現することはできない。

 

その人は心の中で「こいつには何を言っても変わらない」と思っているのだから。

 

なので会話のスタイルとしてコミュニケーションを断絶させる方法か過剰にサービス精神を発揮して「ヨイショ」する方法かのどちらかを採用することになる。

 

自分を「ディスコミュニケーション的」で「コミュニケーション軽視」な主体に変えてしまうのである。

 

断絶とヨイショ。どちらの方法を取った場合でも話し相手が自分の言葉に感化されて変化することはない。

 

コミュニケーションを断絶すればそもそも相手に自分の言葉が届くことはない。ヨイショしておけば本音を伝える必要はない。いづれにしてもコミュニケーションの深化は起こらない。

 

このように「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は、そのスタンスを取ることによって他者とのコミュニケーションを表面上で終始するように構造化してしまう。

 

だからどうしようもないクレーマーとか自分の話ばかりして意思疎通が取れない人とかと対峙する場合には絶大な効果を発揮する。

 

今目の前にいる他者との真摯なやり取りを諦めることによって精神的なダメージを最小限に抑えることができるからである。

 

そのような相手と対峙するときには「他者の変化可能性に対する信頼」はさっさと放棄した方がよい。ディスコミュニケーションに徹した方がよい。そもそも人の話を聴いていない人物に何を言っても無駄なのだから。

 

つまり「他人は変えられないけれど自分は変えられる」という言葉は「常識的に考えて話が通じない人」とのやり取りにおいてコミュニケーションを切断し、自分をストレスから守る時に用いる極めて防衛的なツールなのである。

 

だから通常の人間関係に対して「他人は変えられないけれど自分は変えられる」というスタンスでは望まない方がよい。

 

それは相手と真摯にコミュニケートすることを避けていることになるのだから。

 

人間関係とかコミュニケーションをテーマにした本には「他人は変えられないけれど自分は変えられる!!(キラキラ)」という表現でそれがさもコミュニケーションの肝であるかのように書かれているけれども、それは絶対に違う。

 

「他人は変えられないけれど自分は変えられる」の意味するところは、

 

「(まともにコミュニケーションを取っていたら自分がストレスで壊れてしまうような)他人は変えられないけれど自分は(一時的にあえてコミュニケーション不全になってこの場をしのげるような状態に)変えられる」

 

というものである。

 

確かにストレスは避けられるが使いどころをよく考えていないと誰ともコミュニケートできない人になってしまう「劇薬」なのである。

 

 

 

というような話を正月母方の実家に帰る道すがら思いついたのですが飲み会に次ぐ飲み会で頭が全く回っておらずおまけに母方の実家についたら即ビール&日本酒というありさまでしたので、スマートフォンのメモ帳に残っていた「他人は変えられないけれど自分は変えられるというのは傲慢だ」というワードから何とか思考を引っ張り出して書きました。

 

人と話すときには「僕の話であなたの考えが変わるかもしれないし、あなたの話で僕の考えが変わるかもしれない」という姿勢で臨まないと相手に失礼だし、面白くないじゃないですか。ウェーイ。

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Run Awayという免罪符

人間だれしも目の前の現実を放り出して逃げ出したくなることがあると思う。

そんな時はとりあえず「逃げる」という言葉を「Run Away」という言葉に置き換えてみればいい。

今日、右を見ても左を見ても世間に英語が溢れている。そして憑りつかれたように「英語を学びなさい」というアナウンスが繰り返されている。

中学校で英語、高校で英語、大学で英語、会社でも英語。何なら小学校から英語。

でもそのような状況になっているのは「たまたま」である。

想像してみよう。

もし産業革命がフィリピンで産声を上げ、その勢いにまかせてフィリピンが世界の国々を端から端まで植民地として統治し、勃発する世界大戦の戦勝国として君臨していたとしたらどうだろう。

僕たちは今頃、必死でタガログ語を習得しようと躍起になっているはずだ(日本語が根絶やしにされている可能性もあるけれど)。

日本人だけでなくイギリス人もスペイン人もロシア人もインド人もこぞってタガログ語マスターになるべく精進していると思う。

ある言語がワールド・スタンダードになるのは歴史的な結果論であって、その言語の特質によるものではないのだ。

つまり今日「英語」がワールド・スタンダードなのは「偶然」なのである。

そして僕たちが日本語という確固たる「国語」を保持している以上「外国語」はあくまで「借り物」なのである。

「偶然」与えられた「借り物」なら「なんとなく責任とらなくてもいいかも」と思ってしまう。

だから「偶然」かつ「借り物」である「英語」には「なんとなく無責任が許されるフレーバー」が常に付きまとう。

そのフレーバーを最大限に生かしてみよう。

「逃げる」を「Run Away」に置き換えるという話だった。

あなたは小学生だと仮定しよう。

あなたは宿題をやっていない。嫌で嫌で仕方なかったのだ。

担任の先生はあなたを咎める。

「どうして宿題をやってないの!?」ヒステリックに叫ぶ女教師(メガネ)。

正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。

「僕は宿題から逃げたんだ。」

でもそれを英語を交えて堂々と言ってみよう。

「僕は宿題からRun Away!!」

クラスメートはもちろんのこと担任、教頭、校長までなぎ倒せるだろう。

宿題はやってないけど英語は堪能なのね、TOEIC890点なのねという論理的帰結で、あなたを責める人はいなくなる。

やがてあなたは学級委員長になり、生徒会長になり、卒業式で答辞を読み、卒業式に参列した親御さんから「ぜひ私の子と許嫁になってください」と言われるに違いない。

バラ色の人生だ。

あなたが彼女または彼氏とのデートをすっかり忘れてしまったとしよう。

相手が電話をかけてくる。

「今どこ(怒)」

正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。

「あ、やべ。寝坊した。」

でもそれを堂々と言い換えてみよう。

「デートはRun Away!!」

もはや主語があなたではない。主語はデートである。あくまでも「デート」という主体が逃げ去っていったのである。

「私がデートを忘れていた」のではなく「デートが逃げていった」という鉄壁の責任転嫁。

「デート」という概念にすら主体性を認める姿勢。

あなたのその哲学的思考とかなりきわどい英語力に恐れおののいた相手は錯乱して

「結婚してください!! Marry me!!」

と叫ぶに違いない。そして子供が生まれるに違いない。英語は少子化をも解決する可能性がある。

あなたは壮烈なプレッシャーにさられている。

あなたは心の中で何度もつぶやくだろう。

「このプレッシャーから逃げ出したい。」

これは深刻だ。自然と苦渋に満ちた表情になるだろう。言い換えてみよう。

「このプレッシャーからRun Awayしたい。」

なんとなく、深刻さが薄れる気がしないだろうか。

少なくとも真面目な顔で考えているにしてはポップすぎる嫌いがある。

「逃げる」という日本語を「Run Away」という英語に置き換えることによって、肩の力がフッと抜ける。

それはひとえに英語の「無責任がゆるされるフレーバー」によるものなのだと思う。

追い詰められたとき、逃げ出したいとき我々は意気消沈してしまう。

そんな時には「Run Away」と呟いてみよう。

きっと無用な深刻さは逃げていくはずだ。

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その赤色は資本主義への反抗

サンタクロースは子供の枕元へそっとプレゼントを置いていく。

彼はいつも白く長い髭を蓄えて優しく微笑んでいる。

本来サンタクロースとはそのように無償で願いを叶える慈悲深い存在である。

プレゼントを置いていくのが、実は親だろうが恋人だろうがそれはどうでもよろしい。

少なくとも「与える」精神がそこにあるなら、サンタクロースは偶像でよい。

さて、クリスマスが近づいて来るとあわてんぼうのサンタクロースたちが街中に出現する。

コンビニ、スーパー、電気屋、飲食店あらゆるところで赤い帽子を被った人が現れる。

ところがそのサンタクロースたちの多くは陰鬱な顔をしている(なかには振り切ってる人もいるけど)。

「なんでこんな格好して働かないといけないの」

そんな心の声が聞こえて来るようだ。

本来のサンタクロースの姿とは程遠いことに異論の余地はないだろう。

サンタクロースは、ただ与える。

一方、街のサンタクロースたちは商品と貨幣を交換している。

挙句のはてにはクリスマスケーキを自腹で購入させらることさえある。

そこにあるのは見てくれだけのサンタクロースだ。

そんなサンタクロースは必要だろうか。

そしてそんなサンタクロースは微笑んでいるだろうか。

大学生の時に、

「彼女がいない男限定ヤケクソ☆クリスマスNight〜今夜の記憶はお酒でホワイトに〜」

というイベントが開催されたことがある。

ヤケクソなのだから、ピザなんか注文するわけである。

注文の電話から15分後に玄関のインターフォンが鳴った。ピザが届いたようだ。

ドアを開けるとサンタクロースが立っていた。

帽子だけでなく、全身フル装備の出で立ちだった。

クリスマスイブに男だらけで飲んだくれているただでさえ哀愁漂う状況に、暗い顔してピザを運んできたサンタクロース。

本人が楽しくてサンタクロースの衣装を着ている分には全く問題はない。

むしろ楽しんでいるオーラが周りに伝播するだろう。

でも、そうじゃない人たちがため息をつきながら赤い帽子をかぶって仕事をする必要はないと思う。

本人も愉快ではないだろうし、見ている人にもどうしたってその不愉快さは伝わる。

誰も明るくならないではないか。

プロレタリアートよ団結せよ!」マルクスエンゲルスは『共産党宣言』の中で万国の労働者へ呼びかけた。資本家による不当な搾取に抗うために。

「サンタクロースたちよ団結せよ!」僕は全国の渋い顔したサンタクロースたちにこう呼びかけたい。その不当なコスプレに抗うために。

楽しくてやってる人以外はもうやめませんか、あれ。

ちなみに「彼女がいない男限定ヤケクソ☆クリスマスNight〜今夜の記憶はお酒でホワイトに〜」の名の通り、その日の記憶は真っ白でございます。

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玄関ナウ

待ち合わせをしている相手に電話を掛ける。電話に出た相手が答える。

「今、玄関」

その返答を受けて、頭に思い浮かぶのは靴をつっかけ、ドアノブに手を掛けながら、今まさに家を出ようとしてる人の姿だろう。

「玄関」はそもそも出入りのための空間なのであるから、「今、玄関にいる」という言葉が意味するものは、「今から家を出ようとしている」または「目的の家の玄関に到着した」のどちらか2つに絞られる。

つい先日まではそう思っていた。

しかし自身の経験を通して「今まさに玄関にいる」という言葉には至極シンプルな意味合いがあることが分かった。

 

12月10日(土)の朝、6時50分に集合して遠出することになっていた。

5人で待ち合わせをしていた。

集合場所までの移動時間を考えると最低でも6時30分には家を出なければならない。

前日に早く寝ていれば全く問題なく起きられる。ノープロブレム。

しかし、前日は飲み会だった。

ただ、過去の経験からして日付が変わる前に切り上げれば、確実に朝起きられだろうと判断した。

 

「締め切り効果」というものがある。エンドポイントが設定されることで物事に対する集中力やパフォーマンスが活性化する心理的作用のことだ。

「日付が変わるまで」という締め切りを設定し、飲み会に対する集中力が高まってしまった僕は、いつにもましてハイペースで飲み、天敵である日本酒にまで手を出した。

ただ、結果的には当初の予定通り日付が変わる前には飲み会を切り上げ帰路についた(奇跡と言ってよいだろう)。

 

電話が鳴っている。待ち合わせをしているうちの一人からだ。

「おはよう。今どこ?」

携帯のディスプレイに写った時間は、6時50分を示していた。

僕は現在の状況を正確に報告した。

「今、玄関」

相手は苦笑しながら答えた。

「お前、寝坊しただろう(笑)。まぁ今から家を出るなら大丈夫だから急げよ~。」

恐らく相手は僕の「今、玄関」という発言から「あいつは今まさに家を出ようとしている」と断定したのだと思う。

しかし、「今、玄関」と答えた僕は電話を耳にあて、天井を見上げていた。

玄関で。寝転がったまま。

前日に家に帰った僕は玄関で寝ていたのだ。

つまり僕が電話越しに発した「今、玄関」という言葉は、文字通り「現在、僕という存在は玄関に位置している」という正確無比で純粋な非の打ちどころのない報告だったのだ。

その報告は「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムの模範になりえたと自負している。

キュレーションメディアによる著作権侵害、科学論文のねつ造問題などどこ吹く風。完璧な出典と厳密な報告。

「今、玄関」という言葉には「今から家を出ようとしている」、「目的の家の玄関に到着した」という意味に加えて、「私は今まさに玄関に存在している」という根本的な意味合いがあるのだ。

 

ファッションショーのごとき早着替えと競輪選手のごとき健脚で10分遅れで集合場所に到着した。

お待たせした皆さん本当に申し訳ございませんでした。深く反省しております。

遅刻、ダメ絶対。今週も頑張りましょう。

 

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おかえり拡大家族

「おかえり」と言われれば「ただいま」と返す。当然のやり取りだ。

でも最近この極めてノーマルなコール&レスポンスに悩んでいる。

現在の住居に引っ越してきて3年が経とうとしている。

時間の流れに比例してご近所の方々との仲も深まった。田舎ならではの温かい人間関係。

しかしその関係性が悩みの引き金になったのだ。

職場を出て自転車で自宅を目指す。家が近づいてくる。そこでご近所さんに遭遇する。

僕は「こんばんはー」と明るく挨拶する。

その時ご近所さんが「おかえりー」と返してくる時がある。

どうすればいいのだ。このご近所さんからの「おかえりー」に対してはどう返すのが正解なのだ。

「ただいま」だろうか?

距離が近すぎやしませんかね、それは。そのままご近所さんの家に身内のような顔して帰宅するような勢いを感じてしまう。

だとすればもう少し距離感を出してみよう。

「ただいまです」

乱れてますね日本語が。きっとそんな言葉づかいをしようものなら「最近の若い子は正しい日本語も使えないのね」と訝しがられ、村八分を食らうに違いない。恐ろしや。

ではその乱れを修正してみよう。

「ただいまかえり候」

隠しきれない「僕の前世は武士なんですよ」感。言葉の乱れは修正できたかもしれないけれども、今度は「あの子ちょっと頭がオカシイのかしら」と訝しがられ、速やかに村八分を食らうに違いない。あな恐ろしや。

八方ふさがりの感があるが、発想を転換してみよう。

何も日本語にこだわる必要はない。英語で返せばいいのだ。

「本当は感謝の気持ちを込めて『ありがとう』と言いたいのだけれど、気恥ずかしいから『サンキュー』と言ってしまう」というアレだ。

僕「こんばんわー」

ご近所さん「おかえりー」

僕「I'm home !」

高すぎる。テンションが。確かにテンポはいいのだが、テンションに依存しすぎている。

このままでは「あの子やけにテンションが高いわね。クスリでもやってるのかしら」と訝しがられ、一瞬で村八分を食らうに違いない。oh my god !

じゃあなんて言えばいい!なんて言えばいいの!

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苦心惨憺した挙句、僕はある解答にたどり着いた。

「おかえりー」と言われたら躊躇なく「ただいまー」と返せるような関係を構築すればいいのだ。それも地域全体で。

核家族化、個人の原子化が叫ばれて久しい。マンションに暮らしていれば隣に誰が住んでいるのか知らないという状況がもはや当たり前になっている。

それに伴って「相互扶助」とか「支え合い」といったタームを用いて「地域」が語られることも少なくなった。

「地域」は今、共同体としての機能を失っている。

それが「おかえりー」に対して「ただいまー」と返せない原因なのではないか。

だから「近所づきあいなんてメンドクサイから俺のことは放っておいてくれ」なんて言ってないで、いま住んでいる地域の世帯が一様に疑似的な「家族」であるような関係性を構築すればいいのだ。

それは共同体としての機能を地域に復活させることを意味する。

シェアハウスとかカーシェアリングとかに注目が集まるのは、今の時代に生きる人が心の奥底では他人と「共同」することを求めているからではないだろうか。

具体的な手段について何も書いていない状態でそんなことを言うのもおかしいが、そのような「共同的な地域」はものすごく住みやすいと思う。

他人を排斥するのではなく、他人に頼り他人に頼られる関係性の中で過ごすこと。

地域全体がまるで1つの「拡大家族」であるような生活。

それが今求められている「くらし」の姿なのかもしれない。

 

「おかえり」「ただいま」に関する話がこのような結論に着地したことにワタクシが一番驚いております。