Run Awayという免罪符
人間だれしも目の前の現実を放り出して逃げ出したくなることがあると思う。
そんな時はとりあえず「逃げる」という言葉を「Run Away」という言葉に置き換えてみればいい。
今日、右を見ても左を見ても世間に英語が溢れている。そして憑りつかれたように「英語を学びなさい」というアナウンスが繰り返されている。
中学校で英語、高校で英語、大学で英語、会社でも英語。何なら小学校から英語。
でもそのような状況になっているのは「たまたま」である。
想像してみよう。
もし産業革命がフィリピンで産声を上げ、その勢いにまかせてフィリピンが世界の国々を端から端まで植民地として統治し、勃発する世界大戦の戦勝国として君臨していたとしたらどうだろう。
僕たちは今頃、必死でタガログ語を習得しようと躍起になっているはずだ(日本語が根絶やしにされている可能性もあるけれど)。
日本人だけでなくイギリス人もスペイン人もロシア人もインド人もこぞってタガログ語マスターになるべく精進していると思う。
ある言語がワールド・スタンダードになるのは歴史的な結果論であって、その言語の特質によるものではないのだ。
つまり今日「英語」がワールド・スタンダードなのは「偶然」なのである。
そして僕たちが日本語という確固たる「国語」を保持している以上「外国語」はあくまで「借り物」なのである。
「偶然」与えられた「借り物」なら「なんとなく責任とらなくてもいいかも」と思ってしまう。
だから「偶然」かつ「借り物」である「英語」には「なんとなく無責任が許されるフレーバー」が常に付きまとう。
そのフレーバーを最大限に生かしてみよう。
「逃げる」を「Run Away」に置き換えるという話だった。
あなたは小学生だと仮定しよう。
あなたは宿題をやっていない。嫌で嫌で仕方なかったのだ。
担任の先生はあなたを咎める。
「どうして宿題をやってないの!?」ヒステリックに叫ぶ女教師(メガネ)。
正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。
「僕は宿題から逃げたんだ。」
でもそれを英語を交えて堂々と言ってみよう。
「僕は宿題からRun Away!!」
クラスメートはもちろんのこと担任、教頭、校長までなぎ倒せるだろう。
宿題はやってないけど英語は堪能なのね、TOEIC890点なのねという論理的帰結で、あなたを責める人はいなくなる。
やがてあなたは学級委員長になり、生徒会長になり、卒業式で答辞を読み、卒業式に参列した親御さんから「ぜひ私の子と許嫁になってください」と言われるに違いない。
バラ色の人生だ。
あなたが彼女または彼氏とのデートをすっかり忘れてしまったとしよう。
相手が電話をかけてくる。
「今どこ(怒)」
正直なあなたは心の中でこう思うはずだ。
「あ、やべ。寝坊した。」
でもそれを堂々と言い換えてみよう。
「デートはRun Away!!」
もはや主語があなたではない。主語はデートである。あくまでも「デート」という主体が逃げ去っていったのである。
「私がデートを忘れていた」のではなく「デートが逃げていった」という鉄壁の責任転嫁。
「デート」という概念にすら主体性を認める姿勢。
あなたのその哲学的思考とかなりきわどい英語力に恐れおののいた相手は錯乱して
「結婚してください!! Marry me!!」
と叫ぶに違いない。そして子供が生まれるに違いない。英語は少子化をも解決する可能性がある。
あなたは壮烈なプレッシャーにさられている。
あなたは心の中で何度もつぶやくだろう。
「このプレッシャーから逃げ出したい。」
これは深刻だ。自然と苦渋に満ちた表情になるだろう。言い換えてみよう。
「このプレッシャーからRun Awayしたい。」
なんとなく、深刻さが薄れる気がしないだろうか。
少なくとも真面目な顔で考えているにしてはポップすぎる嫌いがある。
「逃げる」という日本語を「Run Away」という英語に置き換えることによって、肩の力がフッと抜ける。
それはひとえに英語の「無責任がゆるされるフレーバー」によるものなのだと思う。
追い詰められたとき、逃げ出したいとき我々は意気消沈してしまう。
そんな時には「Run Away」と呟いてみよう。
きっと無用な深刻さは逃げていくはずだ。
その赤色は資本主義への反抗
彼はいつも白く長い髭を蓄えて優しく微笑んでいる。
本来サンタクロースとはそのように無償で願いを叶える慈
プレゼントを置いていくのが、実は親だろうが恋人だろう
少なくとも「与える」精神がそこにあるなら、サンタクロ
さて、クリスマスが近づいて来るとあわてんぼうのサンタ
コンビニ、スーパー、電気屋、飲食店あらゆるところで赤
ところがそのサンタクロースたちの多くは陰鬱な顔をして
「なんでこんな格好して働かないといけないの」
そんな心の声が聞こえて来るようだ。
本来のサンタクロースの姿とは程遠いことに異論の余地は
サンタクロースは、ただ与える。
一方、街のサンタクロースたちは商品と貨幣を交換してい
挙句のはてにはクリスマスケーキを自腹で購入させらるこ
そこにあるのは見てくれだけのサンタクロースだ。
そんなサンタクロースは必要だろうか。
そしてそんなサンタクロースは微笑んでいるだろうか。
大学生の時に、
「彼女がいない男限定ヤケクソ☆クリスマスNight〜
というイベントが開催されたことがある。
ヤケクソなのだから、ピザなんか注文するわけである。
注文の電話から15分後に玄関のインターフォンが鳴った
ドアを開けるとサンタクロースが立っていた。
帽子だけでなく、全身フル装備の出で立ちだった。
クリスマスイブに男だらけで飲んだくれているただでさえ
本人が楽しくてサンタクロースの衣装を着ている分には全
むしろ楽しんでいるオーラが周りに伝播するだろう。
でも、そうじゃない人たちがため息をつきながら赤い帽子
本人も愉快ではないだろうし、見ている人にもどうしたっ
誰も明るくならないではないか。
「プロレタリアートよ団結せよ!」マルクスとエンゲルス
「サンタクロースたちよ団結せよ!」僕は全国の渋い顔し
楽しくてやってる人以外はもうやめませんか、あれ。
ちなみに「彼女がいない男限定ヤケクソ☆クリスマスNi
玄関ナウ
待ち合わせをしている相手に電話を掛ける。電話に出た相手が答える。
「今、玄関」
その返答を受けて、頭に思い浮かぶのは靴をつっかけ、ドアノブに手を掛けながら、今まさに家を出ようとしてる人の姿だろう。
「玄関」はそもそも出入りのための空間なのであるから、「今、玄関にいる」という言葉が意味するものは、「今から家を出ようとしている」または「目的の家の玄関に到着した」のどちらか2つに絞られる。
つい先日まではそう思っていた。
しかし自身の経験を通して「今まさに玄関にいる」という言葉には至極シンプルな意味合いがあることが分かった。
12月10日(土)の朝、6時50分に集合して遠出することになっていた。
5人で待ち合わせをしていた。
集合場所までの移動時間を考えると最低でも6時30分には家を出なければならない。
前日に早く寝ていれば全く問題なく起きられる。ノープロブレム。
しかし、前日は飲み会だった。
ただ、過去の経験からして日付が変わる前に切り上げれば、確実に朝起きられだろうと判断した。
「締め切り効果」というものがある。エンドポイントが設定されることで物事に対する集中力やパフォーマンスが活性化する心理的作用のことだ。
「日付が変わるまで」という締め切りを設定し、飲み会に対する集中力が高まってしまった僕は、いつにもましてハイペースで飲み、天敵である日本酒にまで手を出した。
ただ、結果的には当初の予定通り日付が変わる前には飲み会を切り上げ帰路についた(奇跡と言ってよいだろう)。
電話が鳴っている。待ち合わせをしているうちの一人からだ。
「おはよう。今どこ?」
携帯のディスプレイに写った時間は、6時50分を示していた。
僕は現在の状況を正確に報告した。
「今、玄関」
相手は苦笑しながら答えた。
「お前、寝坊しただろう(笑)。まぁ今から家を出るなら大丈夫だから急げよ~。」
恐らく相手は僕の「今、玄関」という発言から「あいつは今まさに家を出ようとしている」と断定したのだと思う。
しかし、「今、玄関」と答えた僕は電話を耳にあて、天井を見上げていた。
玄関で。寝転がったまま。
前日に家に帰った僕は玄関で寝ていたのだ。
つまり僕が電話越しに発した「今、玄関」という言葉は、文字通り「現在、僕という存在は玄関に位置している」という正確無比で純粋な非の打ちどころのない報告だったのだ。
その報告は「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムの模範になりえたと自負している。
キュレーションメディアによる著作権侵害、科学論文のねつ造問題などどこ吹く風。完璧な出典と厳密な報告。
「今、玄関」という言葉には「今から家を出ようとしている」、「目的の家の玄関に到着した」という意味に加えて、「私は今まさに玄関に存在している」という根本的な意味合いがあるのだ。
ファッションショーのごとき早着替えと競輪選手のごとき健脚で10分遅れで集合場所に到着した。
お待たせした皆さん本当に申し訳ございませんでした。深く反省しております。
遅刻、ダメ絶対。今週も頑張りましょう。
おかえり拡大家族
「おかえり」と言われれば「ただいま」と返す。当然のやり取りだ。
でも最近この極めてノーマルなコール&レスポンスに悩んでいる。
現在の住居に引っ越してきて3年が経とうとしている。
時間の流れに比例してご近所の方々との仲も深まった。田舎ならではの温かい人間関係。
しかしその関係性が悩みの引き金になったのだ。
職場を出て自転車で自宅を目指す。家が近づいてくる。そこでご近所さんに遭遇する。
僕は「こんばんはー」と明るく挨拶する。
その時ご近所さんが「おかえりー」と返してくる時がある。
どうすればいいのだ。このご近所さんからの「おかえりー」に対してはどう返すのが正解なのだ。
「ただいま」だろうか?
距離が近すぎやしませんかね、それは。そのままご近所さんの家に身内のような顔して帰宅するような勢いを感じてしまう。
だとすればもう少し距離感を出してみよう。
「ただいまです」
乱れてますね日本語が。きっとそんな言葉づかいをしようものなら「最近の若い子は正しい日本語も使えないのね」と訝しがられ、村八分を食らうに違いない。恐ろしや。
ではその乱れを修正してみよう。
「ただいまかえり候」
隠しきれない「僕の前世は武士なんですよ」感。言葉の乱れは修正できたかもしれないけれども、今度は「あの子ちょっと頭がオカシイのかしら」と訝しがられ、速やかに村八分を食らうに違いない。あな恐ろしや。
八方ふさがりの感があるが、発想を転換してみよう。
何も日本語にこだわる必要はない。英語で返せばいいのだ。
「本当は感謝の気持ちを込めて『ありがとう』と言いたいのだけれど、気恥ずかしいから『サンキュー』と言ってしまう」というアレだ。
僕「こんばんわー」
ご近所さん「おかえりー」
僕「I'm home !」
高すぎる。テンションが。確かにテンポはいいのだが、テンションに依存しすぎている。
このままでは「あの子やけにテンションが高いわね。クスリでもやってるのかしら」と訝しがられ、一瞬で村八分を食らうに違いない。oh my god !
じゃあなんて言えばいい!なんて言えばいいの!
苦心惨憺した挙句、僕はある解答にたどり着いた。
「おかえりー」と言われたら躊躇なく「ただいまー」と返せるような関係を構築すればいいのだ。それも地域全体で。
核家族化、個人の原子化が叫ばれて久しい。マンションに暮らしていれば隣に誰が住んでいるのか知らないという状況がもはや当たり前になっている。
それに伴って「相互扶助」とか「支え合い」といったタームを用いて「地域」が語られることも少なくなった。
「地域」は今、共同体としての機能を失っている。
それが「おかえりー」に対して「ただいまー」と返せない原因なのではないか。
だから「近所づきあいなんてメンドクサイから俺のことは放っておいてくれ」なんて言ってないで、いま住んでいる地域の世帯が一様に疑似的な「家族」であるような関係性を構築すればいいのだ。
それは共同体としての機能を地域に復活させることを意味する。
シェアハウスとかカーシェアリングとかに注目が集まるのは、今の時代に生きる人が心の奥底では他人と「共同」することを求めているからではないだろうか。
具体的な手段について何も書いていない状態でそんなことを言うのもおかしいが、そのような「共同的な地域」はものすごく住みやすいと思う。
他人を排斥するのではなく、他人に頼り他人に頼られる関係性の中で過ごすこと。
地域全体がまるで1つの「拡大家族」であるような生活。
それが今求められている「くらし」の姿なのかもしれない。
「おかえり」「ただいま」に関する話がこのような結論に着地したことにワタクシが一番驚いております。
「根はいい人」は「枝葉もいい」んじゃないかな問題
弁当普通サイズでいい?
ある発言や行動がどのように受け取られるかを決めるのは、積み重ねてきた日頃の発言や行動である。
常に弁当のご飯が大盛りでたまにパンを追加で食していて晩御飯の前にマックのポテトを召し上がる、という人がいたとしよう(2回目の登場)。
その人がある日普通サイズの弁当を頼んだと仮定する。
常に弁当のご飯が大盛りでたまにパンを追加で食していて晩御飯の前にマックのポテトを召し上がるはずなのに、注文した弁当が普通サイズだった場合どう思うだろうか。
「いつも大盛りなのにどうしたんだろう?体調でも悪いんだろうか?」と日頃の行いから推察してしまうはずである。
その人は実はひそかにダイエットを決意したのかもしれない。
でも一番最初に頭に浮かぶのは「小食化→ついに身体にガタが来たか」という悲劇のストーリーだと思う。アーメン。
日頃の発言や行動が、ある時点での発言や行動の意味合いを決める。
昼ではなくて夜を減らそう!
エビ友達
ある事柄で繋がっている関係を〇〇友達とか〇〇仲間とか言うことがある。
お酒で繋がっていれば飲み友達、スノボーならばスノボー仲間というように。
ならば〇〇に入る言葉が「エビ」だった場合、その関係は「エビ」によって繋ぎ止められていることになる。エビ友達。そんな関係がこの世に存在するのだろうか。
半年ほど前に家族でコンサートを聞きに行った際、昼前に会場付近に到着したこともあってどこかでお昼ご飯を食べることになった。
大体こういう時は父の希望でス〇ローになるのだけれども、その時も通常通りスシ〇ーで昼食をとることになった。
昼時で込み合っていたので家族3人でカウンター席に座ることになった。レーンの川上から父、母、私の順で着席した。
私の左隣には30代後半と思われる眼鏡をかけた彦摩呂という出で立ちの男性が座っていた。
「ほどほどにしとかないとコンサート中に寝まっせ」という母の忠告を右から左に聞き流して、父と私は真昼間からビールをガンガン飲み、唐揚げとごぼうの天ぷらと枝豆を貪っていた。
そんな意識の低いアル中(意識の高いアル中はいるのだろうか)二人の前をオーダーされたお寿司が流れていった。
同じテーブルにエビが5皿。大名行列ならぬエビ行列。思わず道端によけて深く頭を下げそうになった。
家族連れが注文したのかなーと思っていたら、すべて彦摩呂が注文したものだった。
着席した時から薄々気づいてはいたのだけれど、どうやら隣の彦摩呂はエビしか食べていない様子なのだ。既に15枚ほどの皿が積み重なっている。
エビ、エビ、エビ、ガリ、エビ、ガリ、エビ、エビという美しい旋律を奏でながらバリバリとエビを食していた。
そして、自らがオーダーするエビにとどまらず、レーンに流れてきたエビはすべて彦摩呂が平らげていた。
彦摩呂の川下には7人くらいお客さんが座っていたが、彼らにエビが届くことはなかった。もはや関所である。
どういうことだ。そんなにこの店のエビは美味しいのか。全国チェーンの〇シローの中でもエビが極度に美味しいことで有名な店なのかここは。
別に特段エビが好きでもないが、真相を解明すべく次に回ってきたエビを食べてみることにした。
しばらくすると、2皿のエビがレーンを流れてきた。
ものすごく美味しかった場合のことを考えて、2皿ともとった。
身体の左側に視線を感じた。
左を振り向くと眼をまん丸にした彦摩呂と目が合った。
「えっ、自分それとるの?」「今までいっさいエビに興味示してなかったやん?」そんな言葉が聞こえてくるかのようだった。
一瞬の沈黙(そもそも喋ってないけど)。時間が流れを止める。彦摩呂の眼に優しさが満ち溢れた。
「エビ、うまいよな。君もこの奥深い味がわかるんだろう?」「僕らの間に言葉はいらないよな、ブラザー?」そんな情熱的なワードが聞こえてくるかのようだった。
そう、ここにエビを介してつながる男同士の友情、エビ友達が誕生・・・
するわけない。
別に普通のエビだったわ。そんなに食べたら痛風になるわ。
というわけで、エビ友達は存在しない。
今週も頑張りましょう。